3."セックス・ワーカー"(1)
エマが父親の店で手伝いを始めてから二ヶ月が経った。
<『キャンディー・ハウス』へようこそ>
ここは男の花園。男たちが期待に胸を膨らませ、ひと時の恋に勤しむ場所。咲かぬ花に夢を見て、刹那に散り行くその時まで、残された時間で人生を色取る、花園なのだ。
そんな男の花園で "ショーウィンドウの女"を務めるソフィは、今日も自分の仕事に勤しんでいる。目の前の男たちに際どいポーズを見せ、色目を使い、待ちの時間を飽きさせないようにしなければならない。
二ヶ月前のあの日も、無心で様々にポーズを決めていたソフィは、開いた自分の股の間から間近にこちらを覗く少女と目が合った。少女は不思議そうに自分を見て言った。
「ねえ、何してるの?」
3."セックス・ワーカー"
『キャンディー・ハウス』はエマの父親の店であり、親子の住居は店のすぐ隣にある。けれど、まだ彼女が小さかった頃は、あまり出入りをしていなかったらしい。
自分の店とは言え、小さな娘がこのような場所に出入りするのは父親にとっては気が気じゃなかったのだろう、とソフィは思っていたが、どうやら理由はそれだけではなかった。先日その理由をエマに尋ねると、「だって、怖かったから」と返ってきたのだ。男の人たちが怖かった、と。
客のほとんどを占める軍人は、小柄なエマにとって、 屈強な"鬼"のように見えていたのかもしれない。軍人の父と兄をもつソフィにとっては、軍服を着た彼らはかっこよくて、いつも "ヒーロー"だった。
ソフィの父と兄が兵役に就いてから間もなく、この国は戦争を始めた。二人の配属は戦況の激しい国境地帯ではなかったものの、任期が終わっても二人は帰って来なかった。
いつしか手紙も仕送りも途絶え、心労が溜まった母は倒れた。18歳になったばかりのソフィが看護学校に通い続けるには、割のいい仕事をしなくてはならない。あらゆる仕事を探し回り、やっと自分に合ったこの仕事を見つけたのだ。
友人からは疎まれ、母には言えない仕事だったが、店のみんなは優しいし、給料もよく、チップをくれる人も多い。何より、なりふり構ってはいられなかった。
それでもまだ、"ショーウィンドウの女"でとどまっているのは、服を脱ぐとき、ショーウィンドウに上がるとき、軍服を着た男たちの欲にまみれた目が見えたとき、ソフィの脳裏には病床の母の、出征した父の、兄の顔が浮かぶからだった。
自分を買いたがる男は多い。それでも私は、まだ "上"には行かない。
* * *
「ソフィ」
バスローブを着こんだ女が上から降りてきて名前を呼んだ。カウンターの椅子に座って一息着いていたソフィはうたた寝をしていたらしく、彼女の呼びかけに、はっと顔を上げた。
閉店後の片付けを手伝っていると、こうして時々 "彼女たち"に会う。彼女たちの多くはこの建物の三階で寝泊まりをしている。
「また寝ていたわね、風邪を引くわよ」
クスッと笑ったその女性は、ソフィと十も離れていないが、〈姉〉というより、〈母〉の方がしっくりくる。いつも、一階で接しているのがあの無邪気なエマだからだろうか、とても落ち着きがあって、それが心地よく感じる人だった。
「オルガ、何か飲む?」
ソフィが席を立とうとすると、いいの、座ってて、と優しく押し返された。オルガは鍋にミルクを入れると、暖炉の火に自分も当たりながらそれを温めた。
「眠れないの?」
ソフィは片付けの途中だった皿を棚にしまいながら尋ねる。オルガのちょうど肩まである少しうねった黒髪から、暖炉の灯りが透けている。
「ええ、ここの三階ってとっても寒いのよ」
「トマさんに言って窓の立て付け直してもらったら?」
トマはエマの父で、この店の店主だ。寡黙で温厚な人で、常連客でも何かに怒っているのを見たことがないという。それでいて手先の不器用な人である。
「頼んだわよ。それでトマさんが直してくれたんだけどね……」
「あら」
不器用な人ほど、自分でやりたがる。それでも一生懸命に直してくれたトマに、優しいオルガは何も言えなかったのだろう。その様子が目に浮かんできて、ソフィは笑った。笑われたオルガは少し口をすぼめてすねたように見せた。
「ほんとに寒くて大変なのよ」
「ふふっ、ごめんなさい。今度お客さんに聞いてみるから」
オルガが温まったミルクを入れたマグカップをソフィの前に置いた。二人分作ってくれていたのだろう。自分のミルクを飲みながら、片付けるソフィの前に座った。
「学校はどう? ちゃんと通えてるの?」
「ええ、大丈夫。春には試験よ」
「ソフィがお医者さんになったら、私たちの定期検査もあなたが診てくれないかしら。あの人たち、雑で痛いのよね」
どこかで聞いたことのある間違いに、ソフィは再び訂正をする。
「看護婦よ。検査は出来ないの」
「同じよ。あなたがいいわ」
そう断言するオルガに、何が同じなのだろうかと思ったが、ここの娼婦たちは定期検査を毛嫌いしている。
もちろん自身の身体に異常が見つかればこの店にいれる理由がなくなるというのが主だが、何よりそのためにやってくる医者とは反りが合わないらしい。
ソフィは思った。きっとここが<政府公認>の売春宿で、安い金で国に依頼された医者が公娼たちの定期検査を厭々やりに来るのだ。プライドの高い医者はその態度を露わにして、彼女たちを雑に扱うのだろう。
体が資本――、いや、“商売道具”というのを彼女たちが一番身に染みて分かっている。だからこそ余計に腹が立つはずだ。
皮肉にも、戦争が始まると、この種の店は客足が途絶えるどころか繁盛する。その多くは軍人で、彼らは戦地に行く前に、できるだけやっておこうと思うのだろう。その分、定期検査も頻繁に行われるようになる。
「オルガは、」
ふと、浮かんだことがそのまま口から出そうになった。これを彼女に聞くのは愚かではないか、と思った。それでもやっぱり、聞いておきたかった。
「オルガは、辞めたいと思わなかった?」
失礼だと思いつつも、背を向けたまま尋ねてしまった。しばらく間が空いて、オルガが答えた。
「あるわよ」
オルガにそうはっきりとした口調で返されたので、ソフィは驚いた。何と返されたら納得したのか自分でも分からないが、少なくとも口調の力強さを感じた。
ソフィは一旦しまった皿を数枚取り出して、また別の段に入れるという作業を付け足した。なんとなく、振り返ることができない。
「何度もあるわ。そうね、最初の仕事をした時とか。私はあなたと同じで "ショーウィンドウ" から "上" に上がったから、いつも私のことを先頭で見てた男の指名だったわ」
初めて聞くオルガの過去だった。ソフィは "彼女たち"に過去のことを聞くのは避けてきた。そこには、決して明るい話はないから。
「……ひどい男だったの?」
そう背中で聞いて、唾をのみ込んだ。
「ええ、それはもう」
ああ、やはり掘り起こすべきではなかった――
「下手くそ過ぎて」
ソフィはつい、振り返った。振り返ると、にっとしたオルガと目が合った。
「自分のに絶大な自信を持ってる人だったわ。きっと、いつも私の体を眺めながら想像してたのね、もし私が “あっち側”に行ったら、最初はああして、次はこうして、って。何度も想像した完璧なプランがあったのよ」
オルガは、その白く綺麗な指先で、マグカップの取っ手を優しく撫でながら言った。下方を見る目に乗る睫毛は長く上向きで、中に何枚も重ねて着ているだろうローブの上からでも分かる滑らかな体の輪郭は、ソフィから見ても艶めかしいほどだった。
「どんなプランだったの?」
ソフィは前のめりになって興味ありありと尋ねた。
「聞かない方がいいわ。とにかく、最悪で……“最速”!」
「まあ…!」
ソフィは大きく目と口を開けて、次第に肩を震わせる。オルガも僅かに少女らしさを見せて笑う。暖炉の薪もそれに加わるかのようにぱちぱちと弾けた。
「でもね、ソフィ、」
オルガは静かに呼びかけた。
「その後も、やりたくない、辞めたい、って何度も思ったわ。ほんとうにひどい人たちも何人もいた。でも、私たちにはこの仕事以外、何もないから」
そう落ち着き払って言った彼女に、ソフィはかける言葉が見つからなかった。
『そんなことない』?
『他にもきっといい仕事がある』?
いや、ないのだろう。彼女には、きっと、なにもないのだ。
「だからソフィ、勉強、頑張りなさい」
こんなところに、来なくていいように。
「風邪引いちゃだめよ。身体は、大切にね」
つらい思いを、しないように。
そう、聞こえた。
その時、店のドアが開いた。トマが隣の自宅から戻ってきたのだ。
「おや、オルガも起きてきたのかい?」
「ええ。……私もってことは、エマ、また寝れなくなったの?」
「もうエマも12歳だ。そろそろしっかりしてくれないとなぁ」
「まだ、12歳よ」
二人の会話を聞きながら、ソフィは12歳頃の記憶を思い出した。母と、父と、兄と過ごした幸せな時間を。頼れる兄と、かっこいい父、そして、誰よりも優しい母だった。
エマには、母親がいない。そして時折それを思い出したかのように、眠れなくなるときがあるのだと、以前、オルガから聞いた。そんなときは今日のように、エマが眠るまで、トマがそばにいてやるのだ。