1.静かな宴(1)
角を何度か曲がりながらいそいそと向かう男たちの生気が、おびき寄せられていることに気づいていない魚のようにその店に吸い込まれていく。一人で入る者もいれば、初々しい仲間を連れて入る者もいて、その店は多くの男たちで賑わっていた。
<『キャンディー・ハウス』へようこそ>
質素な字でそう書かれた店先のウェルカムボードは、入り口の足元に目立つことなく置かれていた。そこは男たちが期待に胸を膨らませ、ひと時の恋に勤しむ花園。咲かぬ花に夢を見て、刹那に散り行くその時まで、残された時間で人生を色取る、花園なのだ。
1.静かな宴
「なあ、マルセル。セドリックの出征から今日で半年が経つ。特進した知らせが来たきりだが、明日は予定通りやるんだよなぁ」
そう言いながらグラスを揺らす男の目線は、カウンター横にある、街のショーウィンドウのようなスペースから、周りの男たちを色目で誘う薄着の女に向けられていた。店内には軽やかなジャズが流れていて、順番待ちの男たちのたわい無い会話が店の活気を示している。
「ああ、あんなに早く出世するとは思わなかったな。ヘイ、そう神妙になるなよシリル、宴だ、喜んでやろうぜ」
隣に座る男が被る帽子からは、二本の黒い羽が生えている頭蓋骨の絵が<Salut!>と陽気に語りかけてくる。シリルはその帽子に目をやると、何も見なかったかのようにそのままグラスに口をつけた。
「マルセルさーん、次ですよ。鍵を持って205号室でお待ちくださいー」
「Salut! 天使エマ! 仕事も板に付いてきたようだね。シリル見てくれ、この子が "天使エマ"だよ。先日12歳の誕生日に学校を追われて、『キャンディー・ハウス』に投げ売られた、悲運の天使さ」
「マルセルさん、話を大きくしないで。学校は私から辞めたの。ここが繁盛してきたから手伝わないと、マルセルさんたちも困るでしょ?」
エマはマルセルの空になったグラスを回収しながらその帽子に目をやった。
「君が "天使エマちゃん"か。美人好きのマルセルがうるさかったわけだ、ずいぶんとかわいいじゃないか。将来が楽しみだね」
そうにっこり笑って酒を飲むシリルの言葉に、少女は顔を赤らめた。柔らかいブロンドヘアと白い肌が、一段とその色を際立たせる。シリルのグラスに酒を足すと、他の客に呼ばれたエマは早足でその場を後にした。シリルは去っていく少女の背をしばらく見て、また先の女に目線を戻してから静かに言った。
「学校か。彼女も大変だったろうね」
「そうだな、あの歳だ。まだ勉強もしたいだろう。友達だっていただろうに」
「あー……うん、そうだな」
「何だよ? 」
シリルの曖昧な返事にもの申そうとしたマルセルに、数席離れたところにいる勤勉な少女から催促の声がかかった。
「マルセルさーんっ!!」
そう叫びながら片手で "2・0・5!"とサインする彼女のもう片方は、回収した数個のグラスが乗った盆を器用に支えていた。続けて "GO!"とサインしたとき、見事にその盆がひっくり返ったのを見届けて、マルセルは笑いながら花園の蜜への階段を上がって行った。
* * *
――翌日、この土地の12月には珍しく、暗い灰色の空からしんしんと冷たい雪が降っていた。
エマは暖炉に薪を放り込むと、ショーウィンドウの薄着の女にホットミルクを差し入れた。
「ありがとう、エマ」
女はその場に座り、受け取ったマグカップを両手で覆うようにして暖をとった。エマはその透き通るような薄い肩に羽織を掛けると、自分に入れたホットミルクを同じように手にして、女の隣に座った。
「ソフィ、まだ上には行けないの?」
少女は無垢に質問をする。"上"には女と男がひと時の恋に落ちる園がある。
ショーウィンドウのソフィが休憩に入ったため、目の前に陣取っていた男たちはわらわらと解散していった。男たちに忘れず手を振りながら、ソフィは少女の質問に答えた。
「そうね、まだ行けないみたい」
そう言って、ミルクをすすった。無垢な少女は質問を続ける。
「早く上に行きたい?」
気づくと、客に天使と言われた少女の目はソフィの目を覗き込んでいて、それは本当に天使ではないかと思うほど、綺麗な碧い色をした目だった。目の前の天使に、何て言えばいいのか、ソフィは迷っていた。自分たちの仕事のことを、"上"に行くとはどういうことなのかを、この子はどこまで理解しているのだろうか。
「んー、どうだろう、実を言うと迷ってるの。やりたい事があるから。"上"に行ったら忙しくなるでしょう?」
「お医者さんだっけ? 勉強たくさんしなきゃいけないんでしょう? すごいね、ソフィ」
ふふっと笑ってエマはミルクをすする。無邪気に笑う天使につられて、ソフィも笑った。
「ふふっ、看護婦さんよ。でも、そうね、勉強はたくさんしなくちゃいけないわ」
ふーん、と相づちを打ったエマは、何か納得したような素振りを見せた。
「そっかぁ、頑張ってね。ソフィは可愛いから何にでもなれるよ」
エマの言葉に、ソフィはまた顔を綻ばせた。
「ありがとう」
そう言うと残りのミルクを飲み干してマグカップをエマに渡した。二人はふたたび自分たちの仕事に戻っていった。
* * *
降り注ぐ雪がだんだんと大きくなってきたのを窓から見ていたエマは、雪に触ってみたくてそわそわしていた。たった今、一席の客が帰っていったところだ。
エマがすきを見て店先の雪を確認しようとドアに手をかけた時、ちょうど扉が開いてマルセルとシリルがやって来た。
「こんばんは。今日は混んでますよー」
エマは残念そうにそのまま引き返して、今さっき空いた席を忙しなく片付けた。二人はその席に着くと、上着についた雪を払ってからいつもの酒を頼んだ。
「今日は飲んで帰るよ」
シリルがそう言うと、はーい、と言ってカウンターに行ったエマはしばらくしてパタパタと酒瓶を抱えて戻って来た。
「? これ、パパがこれを飲んでいいって」
不可解そうにするエマは二人のグラスに持ってきた酒を注いでいく。飛び立つ白い鳥が描かれたラベルのそれは、いつも二人が飲んでいる安酒の二倍くらいの値がするものだということをエマは知っていた。
「ありがとう。エマ、もう一つグラスをもらってもいいかい?」
マルセルにそう言われてさらに不可解な顔をしながらエマはカウンターに戻っていった。
二人はカウンターにいる店主に酒の入ったグラスを上げて見せ、礼をした。
エマの持って来たグラスにシリルが酒を注いでいく。
「そうだ、エマ。これをあげるよ。先月誕生日だったんだろう?」
シリルはポケットから小さな赤いリボンで飾られた小包を取り出してエマに手渡した。
エマの顔がぱぁっと明るくなった。
「ありがとう!」
リボンを解くと、箱の中にはシルバーの小さなハートのネックレスが紙のふかふかなクッションの上に綺麗に乗っていた。エマの目が輝いたのが二人にはよくわかった。
シリルはそれを受け取ると、エマの首につけてやる。
「おれと、マルセルからだよ。12歳の誕生日おめでとう」
「おめでとう、天使ちゃん」
エマの首元のアクセサリーが嬉しそうにきらきらと揺れている。
それを触りながら、ふふふと笑う少女の反応は、12歳の仮面を被った20歳の女性なのではないかとマルセルは思った。
「シリルさんが選んでくれたんでしょう?」
「そうだよ。よく分かったね」
「だってマルセルさん、センスないもの、ねえ?」
「ええ!? そんなことないだろう!」
豆鉄砲を食らったような顔のマルセルを見て、シリルとエマは目を合わせてクスクス笑った。
「友達にも自慢しなよ。二人の男から貰ったって」
マルセルはにっと笑って言ったが、予想に反して、エマの反応が悪いのを感じとった。僅かに表情に影が入ったように見えたのだ。
「友達は……いいの」
伏し目がちにそう言って、エマはふいと踵を返した。常連客にいつもこっそりと出してくれる酒のつまみを取りに行ってくれたようだ。
「うん~? 難しいお年頃なのかな?」
「ほら、いわゆる "娼家"の娘だろ。あまり周りからは……、いい目では見られないんじゃないか? 親も含めて」
シリルは小声で言った。実際に何をする場所かを見ていなくても、分かるだろう。ここが世間に胸を張れる場所ではないこと、声を大にして言えないところ、なのに、必要とされる場所。路地を何度も曲がって、人目に付かないところにある理由。
「いじめ、か……?」
マルセルはシリルに言われていま初めて、エマの明るさに隠れていたその可能性に気がついた。無垢な子供の世界にも、残酷なことは多くある。
「さあな」
エマがつまみを持ってきた。
二人の間に置くと、常連のにはいつもやるように、客のナッツを一粒つまんで食べた。
「今日は宴の日なの?」
エマが唐突に尋ねてきたので、二人は驚いてその顔を見た。
「マルセルさんたち、昨日言ってたでしょう?」
奥歯に挟まったナッツを舌で気にしながら言うエマに、二人は目を丸くしている。子供だと思っていたが、女の子の情報力は侮れない。
「この可愛らしい天使には耳がいくつあるんだい~?」
そう言いながらマルセルはエマの両耳を軽く引っ張りながらじゃれ合った。耳や首やわきの下をくすぐられた天使は、年齢相応の少女のように笑っている。時々脇腹を突っついていたマルセルの力加減は下手だったらしい。
「もう!痛いよ!」
あまりにもしつこい男にへそを曲げた少女は、ぷいと他の席へ行ってしまった。
くすくすと笑っていたシリルは、いつものようにショーウィンドウの方へ目をやると、そこには誰もいなかった。どうやら雪の寒さが考慮され,今はウェイトレスをしているらしく、向こうの方でエマと何やら話している姿が見えた。
「シリル、そろそろ始めるかい?」
そうマルセルに聞かれたシリルは時計を見る。午後8時半。外の寒さがまだ体に残っている。シリルはぼうっと店の入り口を見た。
「いや、約束の時間まで待たないか。まだ30分ある」
そう静かに何かを期待しているシリルの目は、マルセルには物憂げそうに見えた。
もう30分しかない。
「そうだね」
それだけ言って、マルセルはナッツをつまんだ。