季節のメリーゴーランド
季節のメリーゴーランド
「そういうわけで、おじいさんとおばあさんは末永く幸せに暮らしましたとさ。めでたしめでたし」
抑揚のない声で佐伯が朗読を終える。大きく白い手が絵本を閉じ、その大人の男と幼児向けの本とのミスマッチさに言いようのない背徳感を覚えた。例えば、幼児を誘拐したかのような。
「で?」
どこがおかしいんだ、と不機嫌そうに顔をあげた彼に全てと答える。首をかしげるところを見るに、特に何も思わなかったようだ。
「違和感、感じなかったか?」
「特には。よくある昔話じゃないか」
「その、よくある昔話に異論があるんだよ」
電車内で喧嘩している酔っ払いを見るような目。
心底面倒だと思っているのだろう、傷つくなぁ。僕は身を乗り出して最後のページを開き、ここ、と文章を人差し指でトントン叩いた。佐伯は何度か瞬きをしながらもう一度そこを見つめる。
「そう、そこだよ。おかしいと思わないか?全員が幸せになっていないにもかかわらず『めでたし』で締めくくられる。かたや幸せ、かたや不幸せになっていることには触れられていない。何がめでたし、だ。勝手に片方を取り上げて、そちらに肩入れして。挙げ句の果てに彼らのせいで不幸になったもう片方を蔑み、嘲笑う。残った意地悪と称される老夫婦はこの後どう生きていけばいい?」
不条理。昔話や昨今のアニメ、漫画にはこの言葉がぴったりとーーまるでしつらえたかのようにーー当てはまる。佐伯は確かに、と同調する。
そうして、しばらく目を瞑っていたかと思うと、その細い指を折りながらいくつか題名を上げ始めた。
「このこぶの話もそうだが、赤ずきんやらカチカチ山やらも酷い」
「赤ずきんは海外だろ」
「とにかく」
行き過ぎたオシオキ、が多いよなあ。キッズコーナーを見に来た小さな子供に席を譲って、カフェへ向かうことにした。
ーー
山川夏樹は疲弊していた。夜に寝ることも叶わず、それでも学校へ行かなければ酔いに酔った父から手酷い仕置を受ける。
夜に寝られない、というのも夏樹の父が家族が自分よりも早く寝ることを良しとしない人間だからだ。夏樹や母にそれを強要しておきながら、自らは朝帰りが多い。そのために、巻き込まれた家族の寝る時間が4時を回ることはザラだった。
夏樹はまだ小さい。けれど、耐えられなくなってうとうとしていると、“しつけ”が飛んでくるから、どうにかしても起きていなければならない。痛いのは嫌だったが、自分のせいで母が殴られることが一番堪えた。だからこそ、夏樹は我慢を重ねて父に従う。
「ねえそれってさぁ、DVってやつじゃねぇの?」
勇気を出して相談した甲斐、だろうか。チーカマを貪る同級生は何かを知っているようだった。
「それって、何?」
「は?お前DVもしらねぇの?いや、子供相手ってDVだっけ?忘れたけどさ」
「仕方がないだろ」
本心だった。外の世界は怖いものだから、と父は夏樹にパソコンやテレビを使わせてくれない。家にある唯一の情報源は、父が競馬欄を見るためだけに取っている新聞のみ。それも、普段それらがどこに仕舞われているのか夏樹は知らなかった。
お前まじかよ。イマドキ、幼稚園児でも知ってるぞ、と特に興味もなさげに言った同級生は、そのままチーカマを上下に振りながら説明を始めた。
「あのなぁ、DVっていうのはな。ドメスティック…なんだったかなぁ、まあ取り敢えず家庭内暴力ってことだ」
お前あれだけ大口切っておきながらしっかり覚えてないんじゃないか、というからかいは続く言葉に引っ込んだ。家庭内暴力。まさに我が家ではないか。
「で、お前具体的にどんなこと受けてるわけ?あざとかはよく見てるけど流石に家の中までは知らねぇよ」
やるよ、と貰った薄黄色い蒲鉾の皮を剥きながら言葉をまとめる。うまく話せるだろうか。
「…俺が、悪いんだ。いつもいつも。言われたことがうまくできなかったり、遅くなっちゃったり。父さんの期待に添えないと、殴られたり、蹴られたりする。でも、それに泣くと母さんまで殴られるんだ。母さんは悪くないのに、俺が悪いのに」
夏樹は言いながらなんとも情けない気持ちになった。
結局己が至らないから躾けられているだけではないか。これでは自らの恥を晒しているのと同じだ。涙が出そうだ、と歯を食いしばる。しばらくして、なあ、と声をかけられて、俯いていた顔を上げた。目の前の同級生はじっとこちらを見ている。
「お前はなんも悪くねぇよ。なんか勘違いしてないか?暴力は振るったほうが10割悪いぞ。」
「そんなこと言ったって、俺が殴られることをしているほうが、」
「わかってねぇっつってんだよ。じゃあなんだ?お前は痴漢被害を訴える女性に対して電車に乗るのも悪い、とか考えるのか?」
「それはあまりにも離れすぎてるよ」
「何言ってんの?」
それまで心なしか余裕のあった同級生が真顔になったことで、少し焦る。自分の言っていることがおかしいのか、彼のたとえ話が離れすぎているのか。未だ夏樹に検討はつかなかったが、目の前の彼に得もいえぬ恐怖を抱いて縮こまる。それを見た同級生は目を細めて続けた。
「痴漢であれ暴行であれ窃盗であれ殺人であれ、全てどんな理由があろうと犯した側が悪い。なんでかわかるか?犯罪だからだ。ルールだからだ」
それで、お前の受けているしつけ。それは、立派な暴行だ。暴行ーー? 食べているチーカマの味がどこか遠いもののように感じた。
「大人に相談して、警察に言うべきだよ」
「それって、捕まるのか?」
声が震えた。
「あたりまえだろ、だって、」
ーー犯罪。それは絶対に犯してはいけなくて、もし犯したのなら世の中から事実上の追放を受けるもの。
山川夏樹は、疲弊していた。まさか、そんな、先生から聞くような、遠い世界が身近に広がっていて、しかも自分は渦中の人物だったなんて。
「まあ、お前も混乱してるみたいだし。取り敢えず今日はウチに帰ってゆっくり考えたら?」
心優しく物知りな同級生に勧められたとおり、帰路につく。勧められたとおり、といっても夏樹の思考には靄がかかっていて正常な判断ではなかったのだが。
それほどまでに、なんだか知ってはいけないものを知ってしまった心持ちだった。家が見えてくる。地獄が近づく。
ー
「ねえ、君。こんにちは」
カフェへ行こうと動いたその時、冬島は何を思ったか
突然席を譲った小さな子供に話しかけた。いつも何を考えているのかわからない冬島の、更なるわけのわからない行動に佐伯は瞠目する。まだ学生である自分たちが公共の場で子供に話しかけたところですぐに犯罪に結びつけられないにしろ、大人から話しかけている時分、あまり微笑ましい目で見られないのは確かだった。本当に、彼の思考回路はよくわからない。
反応しなくてもいいものを、子供は律儀に挨拶を返した。佐伯は冬島におい、と小声で話しかける。
「お前、何考えてるんだよ?下手したら捕まるぞ」
ちらりとこちらを見やった彼は、まあ見てろ、とばかりに片眉をあげると、しゃがんで子供と目線を合わせた。
そうして、優しくあやすような声で君は挨拶ができて偉いね、と続ける。
「何を調べにきたのかい?君がよければ、僕らにもお手伝いさせてくれないかな?」
「…でも、」
「いいんだよ。ちょうど暇してたところだし。キッズコーナーで駄弁るぐらいだからね」
こうなれば止まらないのが彼だ。思うところがあったのだろう、とことん付き合ってやるか。佐伯も冬島にならってしゃがみかけたその時だった。
「……でぃーぶいって、どうすればいいの」
小さな子供から聞こえた声に思わず固まる。服装からして幼稚園に通っているらしいその男児は、その後テレビで見たときに、もしかしたらと思った、と続けた。慌てて冬島の方を見るが、彼は見当がついていたかのようで特に驚いた様子はなかった。なぜこの子供がDVに関係していることがわかったのかは、後で聞くことにしよう。
「…君は、お父さんやお母さんから暴力を受けているのかい?」
冬島がゆっくりとした口調で彼に問いかける。春哉、と名乗った小さな彼は、震える頭を前後させた。
心が冷える。
「2人から、受けているのか?」
「…虐待」
は、と気がついたら彼に問いかけていた。思考がまとまらない。ニュースでよく見る“虐待児”の文字がグルグルと頭をまわる。春哉は、うん、と小さく答える。
吐き気がした。
「僕のお父さん、今のお父さんと違くて。僕は邪魔なんだって」
「…連れ子か」
小さく冬島が呟く。そのまま、春哉の頭をゆっくりと撫でながら、続きを催促した。
「弟が産まれたの。お父さんもお母さんも、最初は弟につきっきりなだけだったんだけど、だんだんぱんちとかきっくとかされて」
一生懸命話す春哉の語彙が、彼はまだ小さいのだと叫んでいて、ガラにもなく喉の奥がツンとする。正しい言葉に直すのなら、殴る、蹴るの暴行だろう。いや、小さな身体で受け止めるには強すぎる力。大きすぎる理不尽は、そんな言葉で足りないだろう。そう、それはまるで蹂躙。
「…でもね、でもね、春哉は泣いちゃいけないの。男の子だから、泣いちゃいけないの。泣くとね、ご飯も食べられなくなっちゃうから。でもね、春哉が全部悪いの。だって、春哉が、男の子なのに泣いちゃうから」
なぜ、こんなにもいい子が。下唇をぎゅっと噛む。
声の出ない佐伯を一瞥した冬島が、体制を直して春哉の目を見つめ直した。そして、長い付き合いの佐伯でさえ聞いたことのない声で言い放ったのだ。
「君は何も悪くない。何か勘違いしていないか?暴力は振るった方が10割悪いんだ」
君は、何も悪くない。いいね?
よく大人に相談したね。お兄さんたちが助けるから。
ー
警察の赤いパトランプが遠くへ消えていく。夏樹は、母方の祖父母のもとへ預けられた。母は外傷も含めて精神病の治療のため、どこかの病院へ入院するのだという。病気の説明は聞いたものの、よくはわからなかった。
同級生に相談したことで決心がつき、学校の先生に面談を申し込んだ後は早かった。もともと怪しいと話があったらしく、恐ろしいほどのトントン拍子でコトが進み、あれよあれよという間に事態は収束。身体中の傷と近隣の証言が証拠となり、父は警察へ、母は病院へ。騒動の中で両親は離婚したようだから、母はともかく父には暫く会わないだろう。夏樹も精神科に短期入院することを推奨されたが、本人たっての希望もあり、問診を受けた結果通院のみの許可が下りた。
「夏樹、もう大丈夫なのか?」
救世主ともいうべき同級生に話しかけられ、思わず顔がほころぶ。
「凄いんだ、今の家。ゆっくり食べても殴られたりしないし、夜は寝られるし。母さんはいないけど、こんなに幸せならもっと早く君に相談するべきだった」
「そうだろう?困ったときは大人に相談するべきだよ」
「でも、ちょっと複雑。父さんが悪いのはわかってるけど、やっぱりあんまり酷いオシオキは受けて欲しくないな」
オシオキ、という言葉に目の前の彼が苦笑いする。
「罰せられた方は、この後生きていくだけで辛いからな」
この世界は、刑務所に一度入ると再出発は絶望的に難しい。聞くところによると、父は父で小さい頃に僕と同じくらいの虐待を受けていたらしいし、父だけが悪いわけでないことは、小学生の夏樹にもわかっていた。
世の中は理不尽だ。僕はめでたしでも、父さんは生まれた時から憎まれ役の定めを背負っていた。報われない。
「本当は、悩んだんだ。酷いことをされても、父さんは父さんだ。恨んだことなんてなかった」
「…うん」
「でもね、君に言われて視野が開けたんだ。父さんが僕のように育てられて、それでこんなことになったのなら、僕の番で止めればいいんだって。僕が子供を幸せに育てられれば、父さんの“不条理な人生”ってやつは終わりを迎えるんじゃないかな。だって、幸せへの階段の一つになったわけだし。
…それに、」
夏樹は続ける。
「春哉、君の言葉に救われたんだ。あの…君は悪くない、ってやつ」
春哉と呼ばれた少年は少し照れ気味に答える。
「…あれ、じつは受け売りなんだ。……でも、お前の気持ちは痛いほどわかる。だって、僕もあの言葉に救われたからね」
秋が近い。