美少女との遭遇1
「……なぁ、あんさん。ほら、そこから退いたってや。ほら、はよはよ」
透明な質感がある少女の声が聞こえてきた。幸矢の記憶にない声だった。
「肉球でレンズ擦ったら、そら、あかんねん。次からは気ぃつけいや。……ほんで、ほんまなにしとぉ、こん人? なんでこないなとこで寝とぉ?」
心をソワソワとさせる心地よい声音だった。しかし、幸矢は戦闘の記憶が鮮明にすぎた。この声と二足歩行する獣の姿とが彼のうちで結びつく。
「やっぱ、あんさんのツレやろ? ほな、あんさんからもなんやゆうてぇな」
ニャア、という牝猫の応答。幸矢はこれを不愉快さを示すと判断した。
「すまへん、すまへん。ま、そない怖い顔すな」
さて、と幸矢は思う。彼はいかなる術式で敵を撃破すべきかを考えていた。おそらく敵はごく至近に存在している。右腕を伸ばせば届くほどの。なので確実性に優れる撃掌を選択する。ついで想起詞を唱えようとしたが、あやふやな言葉しか浮かんでこなかった。そもそも思考することがもどかしかった。
だが、幸矢は攻撃を決行することにした。どうでもいいや、と。
「お兄さん、お兄さん。ここでなにしてんです? はよ起きてください」
いいかげん、呼びかけられるのが鬱陶しくなってきた。
「こんなとこで寝ておったら、風邪ひいてしまいますよ……」
右肩を軽く叩かれる感触に、幸矢は即応した。バネが跳ねるような勢いで右手を伸ばしたのだ。そして右の掌で標的を捕捉した。
捕捉したのだが、幸矢は違和感を覚えた。剛毛ではなくなにやら布に触れているようなのだ。さらに布を通してハンペンじみた弾力があった。しかも一向に炸裂しない。
さすがに幸矢は焦ってきた。親の仇とばかりに掌をさらに押しつける。そればかりか右左に手首を捻る。それでもなにも起こらない。起こらなかったが、掌の真ん中に突起が当たっていることに気づく。
この時、幸矢の股間のあたりからたしかな呼びかけがあった。
気づいたか? 今、素敵な突起の触感を味わっているのだよ。
幸矢は勢いよく瞼を開いた。ようやくのこと、彼は夢から帰還できた。
幸矢は曇ったレンズの向こうに、眼鏡の美少女の顔を確認した。むろん、瞳は赤くない。しかし敵意を向けてきているようだ。口角がひきつっているのだ。
幸矢の顔から血の気が引いていく。どう対処すべきか皆目わからないのだ。とりあえずは右手をおずおずと引いてみた。美少女の表情に変化はない。
幸矢は目を泳がせながら、咄嗟に湧いてきた言葉を吐きだす。
「すまなかった。しかし、悪気があってのことではない」
玉響の硬直ののち、美少女は息をおおきく吸いこみ、一気に吐く。
「いんどけっ、ダボがっ!」
怒声が空間を揺るがし、美少女の右手が激しく振るわれた。そしてインパクト。痛烈な破裂音と豪快な悲鳴が同時に響く。
幸矢は頭を抱えながら地面をのたうった。目尻には涙が浮かんでいた。しばし暴れていたが、今度は地面を必死の形相でまさぐり始める。そこへ牝猫が彼の眼鏡を咥えて寄ってきた。幸矢は彼女を抱きよせ、善行をほめたたえた。牝猫はかなり苦しそうな顔になっていた。
一方で眼鏡の美少女はこれらの挙動をさめた表情で見おろしている。女性としては非常に高身長なため、そこはかとない威圧感があった。
「まいったなぁ、やっぱ、ここは現実なんだな」
真っ赤に腫れた左頬をさすり、幸矢はひとりごちた。それに対して牝猫は幸矢へと低い声で鳴く。こころなしか眉根を寄せているように見える。
幸矢は横たわった状態で周囲を確認した。景色は彼が記憶していたものと一変していた。平場一面が薄紅色の花弁に覆われていた。頭上はといえば天蓋となっている山桜の梢は若葉だけが目立って、ずいぶんと寒々しく見えた。
幸矢はおおきく溜息をつくと、美少女の足首を一瞥する(視線の方向はかなり意識した)。また溜息をつくと牝猫へと呼びかける。
「俺、あの夢でなんかひでぇことしちまったんかな?」
牝猫は耳を垂らして首を傾げてみせた。
それからやっと幸矢は立ちあがった。彼はかなりの長身だ。一九〇センチを超えているのだ。そのくせ貧弱な体格なものだから、まさにウドの大木。そのウドは派手に伸びをしながら対峙している眼鏡の美少女を観察する。
身長は一八〇センチ程度とあたりをつけた。その肢体は素晴らしいバランスでひきしまっていた。服装はといえば、裾が長い白いブレザーに膝下丈の緋のスカート。襟元のスカーフは紫紺。ブレザーの左肩にあるインシグニアは文鳥のシルエットをあしらった菱形。下にある金の山線はひとつ。つまり奉神舍大學予科、文科丙種第一学年であることを示している。
「えぇと、まぁ、どうすりゃいいんだかわかんねぇんだが……」
幸矢は左の膝頭を揉みつつ、美少女の相貌に注意を向けた。深刻な事態であることは理解できているが、どうしても惹かれてしまうのだ。
美しい。また男前にも見える。おそらく目許の印象が強いからだ。凛烈というのか緊張した強さがある切長の目だ。とにかく面長の目鼻立ちがすごく均整されている。またアンダーリムの眼鏡がそれを際だたせていた。詩的に表現するなれば、ぬばたまの夜に輝く恐るべき均整なのだ。
あからさまに不快な表情をしていても、説得力のある美しさがある。幸矢はにやけてくるのを抑えるのに苦労した。ただ、いくつか欠点も見つけていた。
濡烏の長い髪をハーフアップ、ようはお嬢様結びに整えているのは、それこそ幸矢の嗜好を直撃していた。だが、花弁が絡みついているのはいただけない。しかしなによりも胸の膨らみが絶対的に不足していることが気にかかった。
幸矢がかような評価をくだしている間に、美少女はじりじりとあとずさっていた。当然だ。ウネウネとゆれ動くノッポなど不審人物にしか見えないだろう。
「深刻な問題があるってこたぁ、俺は認める」
幸矢としてはいたって冷静な声音で発言したつもりだった。しかし美少女は厳しい美しさがある目でひたすらに睨んでいるだけだ。幸矢にしても眼鏡が曇っているせいで目つきがとても険しくなっている。つまり交渉できる状況には見えない。剣呑な空気の真ん中で、牝猫はのんびりと毛繕いをしている。
今日は厄日だな。というふうに幸矢はふいに思った。夕方に用事があったが、春の陽気に誘われて昼過ぎに外出。そして思いつきで深奥にある桜の巨木のもとを訪れてみた。それだけで済むはずが、奇怪な夢に堕ちた末に、まさかのこの事態だ。夢で導術者を楽しみすぎた罰なのか、とも思えてくる。
「とにかく……」幸矢は眼鏡の美少女をさらに観察しつつ、これからを検討する。
予科の一年といえば幸矢より三学年下。つまり十七歳と考えたほうがいい。未成年に対する猥褻行為をしでかしたことになる。いや、成年女性相手なら問題なしとはいかないが。とにかく人生を破綻させるには充分な威力がある行為だ。
しかし逃走することはためらわれた。幸矢はある意味で知名度がおおきい男だったからだ。であるなれば、逃走はいたずらに心証を悪くするだけに終わるだろう。結局、素直に非を認めるしかないと結論をくだした。
その後についてはよく考えていない。社会から排除されるのは確実とは予測している。もっとも絶望はしない。現状、なかば抜けだしているようなものだからだ。ただ強制猥褻で転落が確定するというのは、なんというか情けなさすぎて戯画的にすら思えてくる。
「なぁ、兄さん。なんでニヤついておるんですのん?」
美少女から指摘されて、幸矢は笑みを浮かべていることに気づいた。救いようのない自虐が表にでただけだが、笑っていることには変わりがない。
「ほんま、なにやらかしたかわかっておるんですのん? いきなりやらしことしたんですよ。……なんや、黙っておらんと説明してもらえません?」
美少女はつとめて丁寧に話しかけているらしい。幸矢にとってありがたいことに対話を試みてくれているのだ。が、幸矢にはすぐに用意できる言葉がない。
『言えるわきゃねぇ。夢見心地で、あなたを爆砕しようとしました、なんてな』
たしかに事実をそのまま明かしたら、かえって問題を混迷させるだけだろう。
そして幸矢は頭を深々とさげた。まずは謝罪の意を明確にしたかった。
「あのぉ。頭をさげるのはええですが、正直なとこゆうてくれまへん?」
刺々しい口調だった。たしかにただ頭をさげればいいものではないだろう。
「いや、だから、ついうっかりで君の胸を……」実際、けして嘘ではない。
「なんやそれ……。自分、それはほんまなん? えらいタッパのくせにほんまは赤ん坊とちゃう? お乳の気配を感じたら、手が動いてまうん?」
美少女の口調が一変した。幸矢はなにがまずかったのか考えたが、正直なところを多少はぐらかせただけなので、見当がつかなかった。
「いや、だからべつに、そんな、君の胸に触ろうなんざ……」
「へっ? コケにしとぉ? ウチかてちゃんと乳首がついておるで。ま、なんや、おっぱい揉んだことは事実やん。わかっとんのやろ?」
美少女は平坦な胸をドンと叩く。それに対し幸矢は曖昧にうなづく。
『ああ、乱暴なことしでかしたことは認めるよ。乳首の存在も認める。でもさ、揉んじゃいねぇよ』
このように思いつつ、幸矢は牝猫を見やる。即座に顔をそむけられた。
「で、正直なとこをゆうたって」
これ以上は埒があかないので、幸矢は強引に次の段階に進めることにした。
「で、君は誰なん? 予科の一年でしょ?」
気勢を削がれたのか、美少女は呆気にとられた顔になる。
「ああ、たしかに予科の一回生やで」
コクリとしながら幸矢は告げる。「まぁ、俺は学部一年生だけどね」
もはや相手からの示談条件を確認するのみだ、と幸矢は決断していた。そして、まずは互いの素性を明かすべきと判断したのだ。
幸矢はつとめて真面目な顔をつくって少女の応答を待った。反応は芳しくなかった。彼女は肩を震わせている。顔面はみるみるうちに紅潮していった。
「……学部の学生? そいつがなんぼのもんや」
しばしして吐いた言葉がそれだった。いいようのない不安に駆られ幸矢は牝猫を見やる。無情にも牝猫はサッと逃げていった。思わず幸矢は、呻き声を漏らした。もちろん、猫の手を借りたところでどうにかなる事態ではなかったが。
なにがダメだったのか、幸矢はぼんやりとした顔で考える。一方で美少女は凜々しい眉を吊りあげる。そして前のめりになって両手を握った。
「んなこといわれたって、困ったことにそりゃ事実だ」
なんぼ、と問われたので、学生相手に金は期待しないでくれ、と幸矢は応じたつもりだった。むろん美少女の真意は理解できているが、だからこそジョークで空気を和らげたかった。だが、彼の顔はゴツい造作で表情は曖昧だった。
美少女は嘲りの笑みを浮かべたかと思うと、怒涛の勢いで怒鳴りつけた。
「なにさらしてけつかる! 学部生がなんぼのもんや! アホさらしよったら、なにもんやろとアホの子やで! せやのに、やらしことしくさっておいて、歳上やさかい、黙っとれと? おい、こんダボが! 小娘やゆうて下に見ておるゆうなら、ドタマ、まるごと土に埋めたろかっ!」
力強く均整された美貌の持主であって、細身ではあるがかなりの長身。ゆえに、ひとたび怒りを解放すればきわめて凄みがあった。純粋な力でしか対応できなさそうに思えた。美しさは怒りの表現をも強化するようだ。
もっとも猫相手にはそれは効かないようで、牝猫はやや離れたところで香箱になって眺めていた。そして幸矢の態度はというと、ひどく平坦だった。ただ、薄い唇を歪めただけだ。
『なるほど、そういうことだったんか』
幸矢は空を仰いだ。梢越しの陽の光が眩しかった。しかし、暖かみも感じる。
幸矢という男は不安に対し並の人間よりも耐性が弱いかもしれなかった。しかし生来的なものなのか、ひとたび状況がはっきりすればすんなりと肚を括ることができた。つまりやるべきことがわかれば豪胆にふるまうことができる質なのだ。時に対処行動が乱暴になることもあったが。あるいは根本的にマヌケなだけにすぎないかもしれない。
とにかく幸矢は決断をくだした。彼は前へと進んだ。彼は美少女から一歩ぶんの幅をとった位置で腕を組み、その目許を凝視する。高身長の少女を、さらなる高みから見つめる。容赦なく、だ。
美少女のほうはといえば、拳を示しながら幸矢を睨みあげる。我関せずといった態度を示していた牝猫であったが、ここに至ってスクッと立ちあがった。そして長大な尾を横一閃に振るう。まるで紛争に実力介入する用意があると宣言したかのようだ。が、ふたりの人間はそんな様は見ていなかった。