桜と男と猫と、異形たち 2
風が花弁を剥ぎながら吹いている。それに抗いつつ、牝猫は森の暗がりへと、鳥居へと、ゆっくりと足を運んでいる。その瞳孔は限界までひろがっていた。
鳥居まであと三メートルまで迫った時だ。風音に紛れて、人間の声が届けられた。
「はぁるばるきたでぇ、山頂」
若い女のものだ。やや低いが、透明な質感がする。そして、なんとも呑気な言葉。
牝猫は牙を剥く。しなやかな四肢は跳躍への準備を整えた。
「なんやぁ、えらく手間ぁかかってもうたやんけ」
鳥居から少女が現れた。牝猫は瞬時に尾を起立させた。鳶色の長大な尾は、根元から先端まで膨らんでいる。
闖入者は非常な背丈の少女だった。それこそ並の男性が低く見えるほどに。服装は裾長の白いブレザーに膝下丈の緋色のスカート。細身の体躯がより強調されている。襟元にはきっちり結ばれた紫紺のスカーフ。また髪は濡鴉のロング。やや緩めにハーフアップに結ってあった。
顔貌については、こう評するしかない。美しい。面長でじつに端正な造形なのだ。しかも中性的な力強さも備えている。アンダーリムの眼鏡という彩りが完成度を高めている。これぞ均整美の典型、というのだろうか。万人が認めざるをえない美がそこにあった。
「あれま。あんさんなにしとん? もしかして、花見しとぉ? えらい風流やねんなぁ」
美少女は牝猫へと呼びかけた。しごく上機嫌な笑みで。対する牝猫は睨みつけている。次の瞬間には襲撃できる態勢で。それが理解できないのか、少女は半腰になって寄ってくる。
「ねぇ、あなた。すまないが、そこにいるとクリティカルに不都合なんだ」
この時、牝猫が人の声で――弾むような声でそう語りけた。美少女は凛々しい眉をこわばらせる。次に、なんや、とうめいた。牝猫はさらに語りかける。
「端的にいうとあなたの身に危害がおよぶかもしれないんだ。というわけで適当なとこに去ってもらえれば、大変ありがたい」
当然というべきか、少女は牝猫の要請に従わなかった。大股で牝猫へと近づく。が、あと一歩というところで彼女は止まった。身体の挙動が凍りついた。
「よろしい。しばしそこで眠っていてくれ。寝心地は悪いだろうが」
牝猫は尾を左へとヒュッと振った。すると美少女は訝しげな顔を維持して、平場の際までいく。ついでそこで仰向けになり、さらには速やかに眠りについたのだ。その顔はいたって穏やかで、やはり美しい。
「まったく……。空気を読んでほしいものだね」
牝猫は幸矢のほうへと身体を向けると、このように呼びかける。
「ヤックン、よろしく続行して!」
応じて幸矢は朗唱を再開する。この間、彼は目を閉じたままだった。
「則ち我が身は万物の霊と同体なりて、故に心神は天地を照らす浄光の如くなり。さて、天地に充つる霊気、浄光の御徳に依りて萬品のあれませるを育うなり。則ち浄光の御徳は天地の導の如しにして、なれば浄光なる心神は天地の導の如し。故に一大三千世界をなりなせる効験、我が意に依りて形をなさしめること能うなり。然らば虚無太元尊神の神勅に依りて」
幸矢は瞼を開き、頭上へと、遠くへと吠えたてる。
「我、今ぞここに生成無窮の産霊の技を顕さん!」
次に静寂。幸矢は再度、目を閉ざした。そのまま彼は背中から倒れてゆき、仰向けに横たわった。その姿勢になれば、彼はごくごく普通に寝ているようにしか見えなかった。眠れる男へ牝猫はつとめて穏やかな口調で声をかける。
「親愛なるお兄様。御武運を。ここに残る私はぞんぶんにあなたを守護させていたただく」
次に動揺。風が吹く。森を軋ませ、老木から花を奪い去り、土煙を巻きあげ、熱を孕んだ風が平場の中心、幸矢へと殺到する。牝猫は幸矢と鳥居とに忙しく目をやってから、唸るように呟く。
「おいでましたのは三体か。まずは先着のおひとり様から。どうぞこちらへ」
鳥居の向こうの暗がりにぼんやりと一対の赤い光が灯った。
それを認めた牝猫は深くうなづいた。ついで彼女は風に乗るように幸矢へめがけて駆け、直前になって垂直に跳ぶ。その身体は梢に届きそうになって、ふと、消えた。
白い牝猫は花叢に吸いこまれたかのように消えた。風もまた失せた。
また静寂。暴風があった証として、平場一面に薄紅の絨毯が布かれ、明るさを増した。対して山桜の巨樹はだいぶ寂しい装いとなった。そのために、空模様をよく眺めることができる。かような状況で、幸矢は眠りの底にある。それに、あの長身の美少女もまた。
しばし静止した時間が続いたが、また風が吹きはじめる。いや、空気が流れてきた。生温い、すえた臭気が、だ。さらに獣の唸りのような声が低く響く。
「あぁ、なぜマルベリーの梢のささやきが違うのかしら?」
獣の声を押しのけ、少女による歌が空から流れてきた。あの牝猫のものだ。
「それと真昼にナイチンゲールが鳴いているのはどうして? なにか不思議があってここは私の知っている庭ではなくっているのよ。いいえ、ここは楽園ね。ほんのちょっと前までただの庭だったのに……」
軽やかな、しっとりとした調子で唄っていた。だが歌が続くことはなかった。代わりにこの不思議な場に響いたのは大仰な芝居がかった台詞だ。
「この庭が楽園とするなれば、はなはだ異なること。〈地獄〉にあるべき卑しき〈禍霊〉が三匹、なぜにここにあるなりや? たとい〈現世〉へと迷いでた〈幻影〉とすれども、余はこれを許すことあたわず。なんとなれば、余は責を負うものなればこそ」
愉快そうな、だがむりやりさを感じさせる笑いが挟まれる。
「さよう。余は〈統治者〉が一柱、〈名誉ある王者〉。またの名を〈大避神〉と宣う者なり」
まったくわけがわからぬが、とにかく何者であるか宣言された。さらに続く。
「しかして余が御稜威は、〈現世〉の境を戒める醜の御楯。しかるゆえ、理を侵す者をばおしなべて滅するがための猛き力ぞ」
玉響の静寂。それを破って、少女の怒号が空間に木霊する。
「ひどくくだらいないね! 要約する。ドブネズミを狩るだけのこと!」
少女の声の余韻をかきけして、突如、刺々しく重い獣の咆哮が轟く。同時にまたも荒々しい風が起こった。花弁と土埃が渦を巻く騒音のもと、下草を潰してゆく音がたしかに聞こえてきた。この混乱になにかが近寄ってきているのだ。
再び、あの刺のある咆哮。ほぼ同時に鳥居を抜けて転がってくるものがあった。それは大人がひとかかえできるほどの、巨大な泥団子のようであった……が、なにやら急速に膨らみはじめ、複雑な形へと変わっていく。やがて羆ほどの大きさの巨獣と化した。
剛毛に覆われた逞しい体躯。湾曲した角が生えているゴリラと牛を乱暴に混ぜたような頭。茫洋とした目は鮮烈な赤。左の手には槍を携え、また右腕は左よりも歪に長い。かような獣が二本の脚で起立していた。本来ここに棲む動物にかようなものは存在しない。しないのだ。まさに異形。
おそらく、これが〈禍霊〉なのだ。
その〈禍霊〉は唸りながらぐるりを眺める。なにかを探し求めている様子だ。すると、一点に目が止まる。視線の先は、平場の際で眠る、あの背高の美少女だ。彼女に昂奮したのか、〈禍霊〉は赤い目をいっぱいにひろげた。たちまち涎があふれてきた。
「しまったっ! おい、おまえの獲物はこの私だろうがっ!」
素っ頓狂に叫ぶ声。なにごとかというふうに〈禍霊〉は頭上を見やる。ついで右掌をそちらへと素早く振った。ライフルをかまえるように見えなくもない。その筒先が指向する先。まばらになった花叢を透かして人影があった。
「ファイアッ!」
直後。青紫の烈光が空間を圧した。すべてが光と影とに裂かれた。轟きわたるは雷鳴。ついで、風船が割れたような軽い破裂音が、ひとつ。
刹那の現象が過ぎて、その場に〈禍霊〉は崩れた。いや、正確に述べれば、両脚が転がったのだ。腰から上の身体、それを構成していた諸々は地面に散布されている。それらすべてに、桜の花弁が速やかに注がれていった。
状況は単純だ。ごく短時間のうちに、ひとつの強烈な破壊が行われた。
「サプライズゲストなど願いさげだね。私はアドリブが苦手なんだ」
気楽な調子の独言が響く最中、〈禍霊〉の残骸は泥のように溶けていった。
「まぁ、いい。これで準備が整ったわけだ。……さて、宣告しておく。おまえらの喉元にはすでに死神の鎌が触れている。ただ、その戒めに抗う自由はある。だがひとつ注意してくれ。私の〈死の触れる範囲〉では流血の闘争は発生しえない。一方的殺戮のみが展開される」
少女の声は笑った。いやらしいまでの哄笑であった。
やがて微風が空から降りてきた。花梨の香気が薄紅の絨毯を撫でる。次に、いかつい半長靴がそれを踏んだ。
人間らしい外観の存在が唐突に降りてきて、悠然と立っていた。ゆるく左右に幅をとって、右手は腰にあて、肩をことさらにいからせて。
それは――少女と呼んでよいのだろう。常識から逸脱してしまった空間にふさわしい異形の少女が降臨したのだ。
この異形の少女、いや〈統治者〉は背丈が一六〇センチ台のなかばほどか肢体はスレンダー。ただし胸回りは奔放。姿勢のおかげでひどく強調されていた。まぁ、肉体的訴求力に不足はない。
身にまとうものといえば、長袖のブラウスに、前後にスリットが深く切れこんだ、緋色のサロペットスカート。あと半長靴。そう奇抜ではない、はずだ。
「ただし、キルマークをいたずらに稼ぐ必要もないのだがね」
顔立ち、また象牙色の肌に真珠色の髪からして、人種でいえばコーカソイドと見うけられる。全体的に丸まっこく、猫を思わせた。だがまず、なにより目許が特徴だろうか。
円らでおおきな双眸。虹彩は明澄な黄色で……、いわば陽光を吸いこんだ黄玉だ。
気高さを演出するといった表情。が、素地にある愛嬌を隠しきれていない。
「どうせ、私が相手できるのは人形だ。いくら倒したところで、ねぇ」
黄玉の双眸は、鳥居の向こうを凝視する。同時に、地面を鋭く叩き、払う音が。花弁が背中で盛大に舞いあがった。
「だから、おまえらを掌握しておくだけで充分なのだ。それは承知できている」
また地面と叩く音が、続いて空気を裂く音も。背後で花弁が踊る。
花弁を地面から引きはがし踊らせているもの。それは少女から生えていた。主の背丈よりも長く、また鞭のように細く、鳶色の毛で覆われたモノが身をよじっていたのだ。
じつ奇怪な代物がバックスリットから延びていた。けしてアクセサリーではないのだろう。手足と同じく少女の身体の一部のはずだろう。つまり少女は奇妙な尾を生やしているのだ。
奇怪な器官はまだある。
獣の耳だ。頭頂部から尖った耳が生えているのだ。鳶色の短毛に覆われたそれは、狼の、いや猫のものか。とにかく、この少女の耳とは、髪から突きでた獣のそれなのだ。
この〈統治者〉は異形だ。あの白い牝猫が变化したものなのかはともかくとして、異形に他ならない。
はっきりしているのは、異形の存在同士、なにゆえか対峙しているのだ。
なのに、幸矢はといえば、まったくもって静かに寝ている。
「しかし……。御行儀良くできないのだ! まったく苦々しい!」
重い声でそう呟くと〈統治者〉は鳥居を左の手で鋭く指さした。感情の表れなのか、長大な尾が激しく地面を打った。獣の耳が堅く立ちあがる。
「ただ潰すだけでは我慢ならない。心ごと潰してやりたいのだ。よって再度宣言するが、おまえらは自由だ。獲物にありつくべく闘うか、または身体が大事とばかりに逃げるか。つまり、いかに殺されるか、の自由がある」
その時に〈統治者〉のまなざしの先、三対の光が点った。赤く輝く光が。
「ただし、もうひとつの獲物については忘れたほうがいい。全身全霊で探し求め、よしんばありついたとしよう。しかし、残念、ただの肉塊だ。それならば、本当に喰らうべきものへと注力したほうがよほどおもしろい。私としてもそのほうが手応えがあるからな」
かような宣告を終えると〈統治者〉は眠れる美少女を一瞥した。おおげさに肩をすくめてもみせる。
「……それにしても、じつに空しいものだな」
異形の少女は空を仰いだ。先とは一転して、奇妙に弱々しい声音だった。
「しょせん、獣からは獣の声しか返ってこない。木偶を相手にするよしはマシな程度だ」
おそらく怒号だろう。森からはけたたましい咆哮が叩きつけられた。
「そもそも、私はヤックンとの約束に背いているではないか。そばにいるようにと頼まれたのに、すすんで離れ、あまつさえ背を向けている。常に〈魂〉を観ているといっても、この私が安堵できているだけではないか。本当にヤックンを安らげることが、できていない。……ブラディ・バスタード!」
そうして視線を落とす。耳も尾もダラリと垂れる。
「わかるよ、メル。たしかに無益な愚痴でしかないのだろう」
どうも、この場にはいない、メル、という存在と対話しているようだ。
「ああ。責務を放棄することは、ない。そのうえで、いかに執行するかの自由はあると思うのだ。毎度のくだらない口上がいい例だ。半世紀前の人間がミュージカルが好きだから始めたにすぎんのだろ? ならば 人生のいいところを いつも見ていようぜと己の心に訴えることも許されるべきだ」
そして吐き捨てるようにいう。
「……ただただ、この私は素直な善き存在でありたいだけだ」
ついで、深呼吸してからコクリとうなづく。尖った耳と長大な尾が天を指して立ちあがった。両手が堅く握られる。
「よし。多少なりともすっきりできた。さぁ、この私の仕事を始めようか」
鳥居の向こうに灯る光を〈統治者〉は睨む。その表情はすこぶる威圧的。
次の瞬間だ。
花梨の香気が沸騰した。大気が渦となって暴れくるう。森は滝に打たれたように騒ぎ、花弁は嵐の雨粒のように飛んでゆく。
奔流の中心には〈統治者〉。真珠の髪が、緋色の裾が、鳶色の尾が激しく踊る。
その最中で異形の少女はゆっくりと背後を見る。眠る幸矢を見つめる。
風に煽られ宙をゆく花弁はあらゆるものに叩きつけられているが、幸矢とて例外ではない。顔には花弁がびったりと貼りつき、とくに眼鏡は滑稽な有様になっていた。
「すまない、ヤックン。ちゃんと拭うから、これは勘弁してほしいな」
しごく穏やかな声音。それにつれて鳶色の尾がゆったりと弓なりに。
また、ここではじめて少女は微笑を浮かべた。
まったく狂おしいほどに愛らしく。男なら、独占したくなるような微笑み。
そうして〈統治者〉はまなざしを正面に据えた。そこに表すものは冷徹な意識だけだった。じりじりと足幅を拡げながら、彼女はじりじりと右腕を水平にもっていく。
「さぁ、狩りゴッコをしようか?」右の掌を開け放ち〈統治者〉は短く告げた。
長大な尾が横一線に空気を裂く。次には天を衝くように起立する。いわば軍旗が掲げられたようなものか。
ひと呼吸ぶんほどの静寂。そして空恐ろしいまでの巨大な声量が大気を揺さぶる。
「おい、ろくでなしのドブネズミども! おまえら、手荒く叩きのめしてやる! 覚悟しておけ!」
鳶色の鞭が地面を叩き、抉る。続いて〈統治者〉の身体は宙へと跳んでいた。