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牝猫たちはすべてを観ている  作者: N.Willowstream
1・森の奥にて
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桜と男と猫と、異形たち 1  

 牝猫はすべてを観ている。うつつを、心を、夢を、すべてを観ている。


 今、牝猫はとある森の深奥にいる。そこで山桜の姿を間近で見つめている。

 

 その山桜の樹は森の主であった。齢はゆうに二百年を超えていたが、枝ぶりは鯨一頭がすっぽり納まるほどに盛んだ。そして時季は四月の初め。若造に負けじとばかりに膨大な花弁で飾っていた。くわえて天候は晴朗。老樹が人生の絶頂を悦んでいると思えてくる。


 それだけに花叢はなむらの下は光に乏しい。仄暗い底から牝猫は華やかな情景を仰いでいた。


 牝猫の姿態は優美であった。体躯は小柄で、耳と尾が鳶色の他は、綿のような白いコートに包まれている。四肢は長く、尻尾はアンバランスなまでに長い。それから尖った顔立ちはじつにノーブル。また双眸はまさしく黄玉(トパーズ)。曇りなく透明で、しかし濃厚な黄色。


 かような美しい存在が、背を丸め首を伸ばして仰ぎみている。


 ふと、湿った微風が牝猫の顔を撫でてきた。不快だったのか、ミャア、と細く鳴く。また風が寄ってくる。今度は薄紅色の花弁はなびらも連れてくる。彼女はおおげさに身体を揺さぶる。役を終えた冬毛が盛大に撒きちらされた。


「ちょいと風が強ぇみてぇだな、メル」


 気だるい低い男の声。牝猫の背後、山桜の根元からだ。彼女はそちらを見やる。根元の傍らにはくたびれた祠があるのだが、それに背を向けてひとりの男がいた。長すぎる手足を窮屈そうに寄せてうずくまっていた。


「月に叢雲むらくも、華に風。まさにそんなところか。ちょうどいいタイミングだったかもな」


 非常な長身だが、痩せこけた男だった。灰色のジャージのせいか、彼のまわりは影が濃く見える。


「けど、まだまだふんばってくんねぇもんかね」


 粉雪のように落ちてくる花弁を見つめ、男はひとりごちた。牝猫はその男へと――弓庭(ゆば)幸矢(さちや)を注視している。


 幸矢の顔貌はひとことで表現できる。ゴツい。


 薄めの唇に骨ばった頬、いやにひろい額。それらに囲まれてずんぐりと太い鼻が隆起していた。反比例して目許は深く窪んでいる。底に納まる目は、これまた蛙じみたギョロッとしたもの。くわえて分厚い眼鏡。だが不細工なわけでは、けしてない。イランあたりの街角ならしごく映えることだろう。


 もっとも今は陰鬱な印象しかあたえない。乱雑な髪に無精髭だけのせいではなさそうだが。


「できりゃ、邪魔なしにこれだけを見ていてぇんだよ。……ひとりぼっちだとしてもな。それがよ、たまたまここに逃げてきたら、今年はこれで最初で最後だなんざぁつまんぇぞ、おい」


 そして幸矢は目の前に流れてきたものを摑みとった。素早い挙動だった。掌にある薄紅色の一片をにらみながら幸矢はいう。


「今まで咲き始めから散り際まで楽しめたもんなのによぉ。まぁ、時季になりゃステラが丘のてっぺんを観測してたわけだし、当然ちゃ当然だが……」


 すると幸矢はきつく眉根を寄せた。こめかみを揉みながら、彼はいう。


「そんぐれぇ俺もできるようになんなきゃな。なにせ、俺は妙なもんが見えちまうわけだし」


 すぐさま牝猫は幸矢へ寄ってきた。幸矢は筋ばった手で牝猫を撫でる。ひどく慎重に、が、とてもしっかりと。きわめて抑えた声音でささやく。


「メル。やっぱ静かに花見ができやしねぇ。こりゃ、よろしくねぇわ」


 続いて幸矢は真正面をねめつける。右頬が小刻みに震えはじめていた。正面にはほどよく均された地面がひろがり、その先には鳥居を境にして森があった。照葉樹が主なのですでに木下闇このしたやみができていた。


「ちょびっとずつ寄ってきやがったわけなんだが……」


 牝猫も同じほうへと首を回した。


「今じゃ、すぐそこだ。もう時間がねぇや。あぁあ……まいったね、こりゃ……」


 幸矢の視線が据えられたのは鳥居の向こう。見えるものといえば、鬱蒼とした緑の塊、そのうちに孕んだ暗い領域。ただそれだけだ。


 しかし幸矢はそこへと威圧の視線を放っている。木下闇を、その虚無を、いや、彼にしか認識できぬものを警戒しているのだ。


 ふと幸矢は額を撫でた。じっとりと湿っている。ついで胃のあたりを、さらに喉元を抑えた。無骨な顔面がひどく歪んでいた。唇はたしかに震えている。不快な感情に潰されかけた者の顔だ。


「ブラディだ……。吐き気がしやがる。煙草を吸いてぇんだが……。いや、どうにもなんねぇか」


 幸矢は絞るような声音で罵りを吐いた。そうして牝猫の背をせわしく撫でている。そうすることで耐えているのだろう。


 いっぽうで牝猫もなにかが見えているのだろう。鳶色の長大な尾をおおきく振るい、彼女は鳥居の先へと牙を剥いた。尖った耳はいきりたち、瞳孔はいっぱいにひろがっていた。


「あぁ、クリティカルにクソだわ。御機嫌な陽気なんだから、御機嫌に昼寝させてくんねぇもんかな」


 腕時計を確認して、幸矢は文句を漏らした。時刻は午後二時を過ぎていた。


「わかっちゃいるんだ。バケモンどもが気ぃ利かせるわきゃねぇこたぁな。そんでどこだろうといつだろうと逃げられるわきゃねぇこともよ。そんなゴタゴタにつきあってくれるメルにゃもうしわけねぇが」


 ここは照葉樹林が覆う小高い丘のピーク。開けた平場になっていて(テニスコートぐらいだろう)、中央には祠が鎮座し、傍らの山桜の梢が蓋をしていた。ぐるりを森が囲う、祠と巨樹だけの空間。狭苦しい空間。そして外界との関門は鳥居。


 不穏な空気を感じとる人間もいるだろうが、いくら注意を巡らせたところで危険はみあたらない。気がひかれるような音も漏れてこない。だが、幸矢と牝猫は明確に”対峙”していた。


「ま、虚しい願望てこたぁわかってる。……そいつらの住処は俺の脳ミソなんだから。さすがに脳ミソを捨てるわけにゃいかねぇし、どうしようもねぇわ」


 幸矢は長く深く息を吸う。震えは収まらない。が、彼はひときわ鋭利に睨む。


「だからつって、俺はバケモンに喰われるつもりはねぇ。むしろ、こっちが喰らってやらぁ。フィールドはこっちが用意してやっから、もうちょい待ってろや」


 昂りを忍ばせた声だった。口許には嘲りじみたものが表れていた。その時、短く鳴いて、牝猫が幸矢の前面に歩みでた。鳶色の尾を乱暴に振りまわしている。


「いつもすまねぇが、メルよ。俺が夢に墜ちてる間、ずっとそばにいてくれや」


 幸矢は牝猫の背中へと語りかけた。その声音は憐れみを乞うものであった。


「しつこいけど、理由をいわせてくれや。この現実にある身体がどうなっちまうか、不安でたまんねぇんだ。なんかあったら起こしてほしいんだわ。ほら、猫の手も借りたい、てよくいうじゃんか」


 幸矢はこわばった笑みをつくった。それは混乱しきった感情の現れなのか。 


「むしろこれからの夢は期待しかねぇんだ。貴重なステラとの逢瀬なんだから。声だけだつっても俺にゃ充分すぎらぁ。わかってくれるだろ、メル?」


 応ずるように牝猫が全身を震わせ、甲高く鳴いた。幸矢はもうしわけなさそうな面持になる。


「あ、そうだな。……うん。現実じゃ無理だと決まっちゃいねぇわな」


 そうして幸矢はまなざしを真正面に。それから深呼吸をひとつ。あぐらへと座りなおし、上体はやや前のめりへと姿勢を整える。異様な双眸に灯るものは明白すぎる闘争心。


「おい、よろっと始めちゃおうぜ。こちとら、野暮用が控えてるんでよぉ。さ、気ぃつかうこたねぇから、こっちに来やがれって。フィールドは俺の夢だ。てめぇにゃ敷居は低いだろ?」


 幸矢は虚無へと呼びかけた。その時、牝猫は幸矢のほうを見やる。

 

 幸矢はそれに気づいた。一瞬、幸矢と牝猫の間で視線が交わった。彼は目を細めて深くうなづく。


親愛な(Beloved )るお嬢様( my sister)。こっから俺は夢に墜ちんぜ。そんじゃ、よろしく頼まぁ」


 次の刹那、幸矢の瞼は落ちた。ストンと落ちた。牝猫が代わりに威嚇のまなざしを鳥居の向こうに据える。


「天神地祇あめつちのやおよろずのかみ、我に宣いたまう。けがれなき心神わがたましいを観ぜよ。我、穢れなき心神を観じて、天神地祇に畏み畏みもうす」


 幸矢は歌うように大時代的な文句を唱えた。神道の祝詞のりとでありそうな文句だ。さらに続く。


「此の時に清く潔きことあり。諸の法は影と像の如し。清く潔ければ仮にも穢れることなし。ことを取らばべからず。皆花よりぞ木実とは生る。我が身は則ち六根清浄ろっこんしょうじょうなり」


 幸矢の口から一音、一音に力のある朗唱が漏れてきた。しかし、顔面からは言葉が進むごとに緊張が薄らいでいる。また唱和するように牝猫は低く重く喉を唸らせている。


「六根清浄なるが故に五臓の神君安寧なり。五臓の神君安寧なるが故に天地の神と同根なり。天地の神と同根なるが故に万物の霊と同体なり」 


 幸矢の朗唱は次第に熱を帯び、瞼は薄く開かれた。が、盛んに揺れる瞳が現実を見ているようには思えない。対して牝猫のまなざしは境界の外を捉えて揺るぎがない。


 まさにその時だ。鳥居の向こうから音が聞こえてきたのだ。ガサゴソとなにかが近づいてくる音だ。それとともに、幸矢の朗唱が止まった。さらに牝猫が毛を逆立てて鳥居へと歩みだす。木下闇に、今はじめて実体を持ったなにかが現れたのだ。

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