深淵
昨日、ばあちゃんが死んだ。
いつもは宅配便の在宅確認の時にだけ鳴る携帯が、私がまだまどろみの中だった午前五時に鳴った時は非常に不愉快だった。だが寝ぼけ眼のまま通話ボタンを押すと、そんな頭のもやもやは一瞬で霧散した。かけてきたのは母親だった。私は現実とは言い難い現実を、まんまと突きつけられた。
昨日は職場の懇親会だった。同じ部署で一番いい男の隣に陣取り、調子に乗って、いつもは口にさえしない熱燗を二合ほど呷った。その結果見事に二日酔い。頭が痛い。胃が口から出てきそうなくらい気持ち悪い。それを抑えつつ、私は三日分の着替えをバッグにつめて、新幹線に飛び乗った。
デッキで会社に電話をすると、「仕事は大丈夫だから、気持ちを整理してきなさい」と言われた。ヒラな私一人が抜けたところで特に支障はないだろうけど、その心遣いがとても心地よかった。あの会社を選んでよかった。いい男もいるし。こうして福利厚生もしっかりしている。少しだけ心が軽くなった。
コンビニで買った朝ごはんを食べながら二時間半乗って、そこから普通電車に乗り換えてまた少し。こうして実家への道のりを辿ると、東京の大学へ進学すると言って家を飛び出した数年前を思い出す。父は私を知り合いの会社に入れてやると言ったのに、私が東京に出て東京で暮らしたいと言った。それが原因だった。今思えば安定に人生を送るチャンスを逃したのかもしれないが、当時の私はこの片田舎にいるのが苦痛だった。だから後悔はしていない。そんなことがあったから、あれからは一度も実家には帰っていない。勿論親の顔も随分見ていない。駅に着くまで、親に会った時の第一声をどうするか悶々と考えていた。
改札を出ると、私が家を出るまで母親が乗っていた赤色の車が駅前に停められていた。近づくと、案の定母親が乗っていた。私はトランクを開け、バッグを放り込み、そそくさと後部座席に乗り込んだ。
「久しぶり」
「うん」
第一声はあっけなかった。
私の方を向くことなく車を出した母の頬は、僅かにこけていた。久しぶりに見たからか、それとも年相応に老けたからか、私の知っている母とは別人のようだった。
「ちゃんと会社は休みもらったの?」
「うん」
「口で伝えた? 言伝じゃだめよ」
「電話したよ会社に」
誰が出たかも言おうと思ったが、覚えていなかったのでやめた。
車に五分ほど揺られてようやく実家に着いた。私が三歳くらいの時に、父がローンで建てた一軒家。白い壁が少し変色している。家としてはまあまあな寿命だ。よくやっていると思う。他に変わったところといえば、小さな庭にあまり手入れがされていない盆栽が二つほど。それ以外は私がいた頃とあまり変わらなかった。
「車しまってくるから、先降りて」
母にそう促され、私は荷物一式を持って車を降りた。
玄関をくぐると、お線香の匂いが鼻を擽った。私はとりあえず荷物だけ置こうと、かつて私の心の牢獄だった部屋に向かった。玄関前の階段を上り、廊下をまっすぐ行って突き当たりの左側にある部屋。ドアを開けると、私のものではない布団やら化粧道具やらが散乱していた。どうやら私が出ていってからは妹の部屋になっているらしい。数日の滞在なので、私は構わずにバッグを床に置いた。妹がそれで怒るほど狭心ではないことは覚えていた。
喪服に着替えると、最低限の貴重品だけ持って一階のリビングに向かった。部屋の真ん中に据えられた大きめのテーブルを囲むようにして、親族が集まっていた。
「おう、久しぶりだな。随分と大きくなって」
昔よく遊んでもらっていたおじさんが、私を見るなり笑顔で言った。私は小さく会釈をするなり、冷蔵庫から麦茶を取り出してコップに注ぎ、一気に胃に流した。二日酔いの気分の悪さをどうにかしたかった。
「もう挨拶した?」
私に続いてリビングに入ってきた母が、隣の部屋を見ながら聞いてきた。
「まだ」
「お線香だけ早くあげてきなさい。もう何年も顔を見せてないんだから」
「わかってるよ」
母は嘆息すると、私の麦茶を横取りして一口飲み、親族の輪の中に入っていった。
それから、私はいつだか父が趣味で作った縁側に座り、なんとなく庭を見ていた。胃に溜まった冷たい麦茶の感覚と、秋の頭の乾き始めた風が、気分を少し楽にした。
お線香はあげていない。スマートフォンを何度も見遣って、職場の心配をする。勿論、私がいなくてもある程度仕事は回る。でもこういう責任感がなくなってしまったら、仕事なんてやっていられない。あれだけ息精張って家を飛び出して自分の好きな道を進んでいるのだから、これくらいの気持ちはあって然るべきだろう。
しばらくそうしていると、私の隣に父が腰を下ろした。すっかり白髪が目立つようになり、皺も増えた。もう中年の域さえ出てしまいつつある。
父は背広の胸ポケットから煙草を取り出し、火をつける。煙の臭いが懐かしい。
「調子はどうだ」
父が私を見ずに言った。
「まあまあ」
「会社に迷惑をかけていないだろうな」
「平社員がかけられる迷惑なんてたかが知れてるでしょ」
「……そうか」
会話が止まる。父への第一声も、あっけないものだった。
「線香、あげてこい」
「あとでね」
「いや、すぐあげてこい」
「なんで」
「お前、さんざん世話になっただろ。俺も母さんも共働きで、ばあさんがお前を育ててくれたようなもんだぞ」
「知ってる」
「なら、早くしろよ。ばあさんはお前が帰ってくるのを待ってたんだ」
そう言い残して、父は煙草の火を消し、またリビングへと戻っていった。
私はずっと庭を見ていた。真上にある太陽の光で空気が熱せられて、夏休みの終わりのような匂いがした。蝉の声はしなかった。
私はしばらく縁側から動かなかった。ただ何度も、職場から連絡がないかを確認した。当然ない。それ以降、父も母も、私にお線香をあげるよう催促することはなかった。時々私の後ろを通っては、何も言わずに過ぎていくだけだった。
空が、晴れ上がっていた。雲がない。風で流されたのだろうか。青々とした高い空が、天井のように私の上を覆っていた。その上が黒いとは考えられないくらい、とにかく青い。筆の跡がわからないくらい、綺麗にキャンバスの上を青が満たしていた。
青以外、色が見えなかった。世界が鮮やかな青色に染まった。
私は立ち上がって、縁側から逃げるようにリビングへ向かった。青が恐くなった。底がどこまでも見えなくて、一度飲み込まれたらもう戻れそうにない気がした。
リビングのドアを開けようとして、立ち止まる。三歩分隣に動けば、ばあちゃんのいる部屋だ。そっちのドアは閉まっている。
私はリビングのドアノブから手を離した。そして三歩移動し、ばあちゃんの部屋に手をかけた。
お線香の匂いと煙が部屋に充満していた。奥にはたくさんの花と、位牌と、お線香と、棺桶。青い棺桶だった。
ばあちゃんがいた。その青い棺桶の中だった。
無表情で、しかし今にも起き上がりそうに眠っている。ただ眠っているだけ。顔色も悪くない。それが死に化粧というものだと気がつくまでに時間がかかった。
ばあちゃんは優しかった。私がまだ小さい頃に死んだじいちゃんの言ったことに、はい、はいと何でも返事をしていたらしい。そしていつもにこにこと笑っていた。共働きだった両親のかわりに、幼い頃のほとんどの時間をばあちゃんと過ごしていた。おやつには磯辺焼きやホットケーキを作ってくれたり、保育園に入ってからは毎日送り迎えをしてくれた。私が家を出た時も、ばあちゃんだけは優しく「行ってらっしゃい、気をつけてね」と言ってくれた。それだけで、私は東京でもやっていける気がした。
私を育ててくれたのは、ばあちゃんだった。ばあちゃんがいたから、私は今、こうして忙しなく働き、そこそこ充実した生活を送ることが出来ている。人並みの幸せを感じている。自分の進みたい道を進めている。
そのばあちゃんが、死んだ。ばあちゃんは今、死と共に私の目の前に横たわっている。
私は今、この瞬間まで、その現実から目を背けていた。朝、電話で現実を突きつけられてから私は、ばあちゃんの死とまともに向き合おうとしなかった。受け入れるのが恐かった。
爪先に水滴が落ちた。ようやく、涙が出た。目元を拭いても泉のように湧き出し、視界もはっきりとしなくなる。
痛かった。胸も頭も。逃れられない喪失感が私を包んで、どうすればいいのか分からなくなった。
この世界に、ばあちゃんはもういない。ばあちゃんは深淵へと消えてしまった。濃い青のその向こう側へ、ばあちゃんは私を置いて行ってしまった。
辛いとか、悲しいとか、いろんな感情がごちゃ混ぜになって、気持ち悪くなった。耐えられなくなった私は、トイレにかけこんでから二回吐いた。
三時間くらい、ばあちゃんの隣でうなだれていた。
もう何もする気にはならない。私を覆い尽くす絶望感は、少しも消えてくれそうになかった。
両親や親戚は何度か声をかけてくれたが、何も受け止める気にはならなかった。
私の中にはもう何も残ってはいなかった。あるのは、何もないが故の空虚感だけ。涙さえもう出なかった。
深淵にいるのは、私も同じかもしれない。
こんなにも早く、大切な人を失うなんて考えてもみなかった。
体が重い。二日酔いなんかじゃない。心が重くなって、体も重くなった。
「線香が消える。お前があげろ」
背後から父親の声がした。私は言われたとおり、お線香を一本手にして、火をつけて、香炉に立てる。また部屋がお線香の匂いに包まれ始めた。
「寿命だそうだ。よくここまで健康に生きたって、医者が言っていた」
そりゃそうだ。ばあちゃんは昔から病気ひとつしたことがなかった。
「お前が帰らないことをいつも心配していた。口を開けばお前のことばかり。お前はじいさんをよく覚えていないだろうが、じいさんが死んでからは、お前がばあさんにとって生きる支えになっていた。そんな感じのことを、ばあさんはよく言っていた」
「……最期、なんて言ってたの」
「俺は看取ってないから、母さんに聞け」
「じゃあ父さんが最期に話した時は、なんて言ってたの」
父は黙った。それから少しして踵を返すと、何も言わずにリビングに戻っていった。
しまった、と思った。父だって辛くないわけがない。これではただの八つ当たりだ。
だが、父はすぐにリビングから出てきて、今度は私の隣に座った。そして手に持っていたものを、何も言わずに私へ差し出した。
「何、これ……」
「ばあさんが死ぬ前の日までつけていた日記だ。ばあさんの遺品を整理している時に出てきた」
私はそれを受け取り、ゆっくりと開いた。
確かに日記だった。古い人だからか、所々普段使わないような字が使われていた。
ゆっくり、ページを捲る。
読んで、ページを捲って、また読む。
何度も何度も、ページを捲り、読む。
それを繰り返しているうちに、自然と、頬を涙が伝った。
書いてあるのは、ほとんど私のことだった。
よくやっているか。ご飯はちゃんと食べているか。悪い男に捕まったりしていないか。じいさんはしょうもない人だったから、どうかいい人が見つかればいい。体は壊してないか。勉強はちゃんとやっているか。仕事で頑張りすぎてないか。ほどほどに、幸せに生きているか。
捲って捲って、その日記は、一昨日の日付で終わっていた。
『今日は少し早めに夕飯を食べた。あの子はしっかり栄養を取っているだろうか。もし近いうちに帰ってくることがあったら、そのときは、久しぶりにご飯を作って、食べさせてあげたい』
次のページも、その次のページも、真っ白だった。
どれだけ捲っても、続きはない。真っ白な上にボタボタと涙を落としながら、必死に探した。でもなかった。ばあちゃんの字は、もうどこにも書かれていなかった。
「俺にとっては、それが最期の言葉だ」
父は窓の外を見て言った。
「……父さん、ペン持ってる?」
聞くと、父は私の方を見ずに、内ポケットからボールペンを取り出して私に差し出した。
『ばあちゃん、私は帰ってきたよ。ばあちゃんがいなくて、ばあちゃんの晩ご飯は食べられなかったけど。全部終わったら東京に戻ります。それまで少しの間、私のそばにいてください。今までよりもずっと、何倍も、ばあちゃんのことを想っときます』
日記は、火葬の日に一緒に燃やした。
その方が、どこにいてもばあちゃんに届きそうな気がしたから。