第一節 天使−キシ−
キーンコーン、カーンコーン
チャイムと共に、今日の学生としての1日に終わりが告げられた。教室の前列から3番目、窓際の席に座っていた少年が、カバンの中に教科書を詰め込んでいた。
「け〜い!どっか寄ってこうぜ!」
後の席から、友達の浅野が呼びかけた。
「ごめん。今日は、ばぁちゃんのお店の手伝いなんだ」
「そっか・・・んじゃ、俺行くから」
彼は席から離れて教室を出ると、待っていた友人達と廊下を歩いて行った。
誘われても断ってしまうのは、いつもの事。別に彼らと遊ぶのが嫌いなのではなく、忙しいのだ。故に帰宅部で、部活動はやっていない。
話し声がそこら中から聴こえる中、恵はカバンを持って席を立った。
僕は将陵恵。今年の秋に17歳になる、高校生。県立西浦第一高校2−A在籍。
両親は僕が幼稚園に入る前に他界して、母方のばぁちゃんに育てられた。死んだじぃちゃんと始めた小料理屋を切り盛りしており、僕も一緒に働いている。
近所では名の知れた有名人で、その理由はというと・・・
「だだいまぁ〜」
暖簾の掛かった戸を開けて、恵は店舗兼住居の玄関を潜った。
「あら、意外と早かったですね?おかえりなさい、恵」
大分色の薄い癖の無い髪が、腰まで長く伸びている。目は釣り上がり気味だが、決して気の強そうな感じはしない。顔の彫りは深く、余り東洋人な感じがしない。鼻梁も高く、万人に理知的な印象を持たれるだろう。しかもこの上なく若く、誰も60に手が届くとは誰も思うまい。
将陵克美。恵の祖母にして、彼の育ての親だ。
「何か手伝う?皮むきならやるよ」
「その前に、カバンを部屋に置いてきなさい。それから仕事をしてもらいます」
克美はカウンターから顔を出し、2階へ登る階段を視線で指した。菜箸を持った右手は、アルミ箔で落し蓋を突いている。体が動くたびに、薄紫の上着の左袖が靡く。
克美の左腕は、肘から下が無い。
恵を引き取った時から、彼女の左腕はなかった。本人に直接聞いた事はないが、常連のおじさん連中は事故だの抗争だの、勝手な憶測を立てていた。
片腕しかない祖母の仕事を、恵は幼い頃から手伝っていた。最初は包丁を持つ事など許してもらえなかったが、今は皮むきが自分の仕事になっている。
2階の自室にカバンを置き、学ランをハンガーに引っ掛けて店に降りて来た。エプロンを着てYシャツの袖を捲り上げて、先ずはサトイモの皮むきから始める。
5時半に店を開けると町内のおじさん達や、仕事終わりのサラリーマン達が入って来る。
「ばぁちゃん。生2丁に、刺身2皿。枝豆2つよろしく」
「はい。これはキンメの煮付けです。それと、お皿も洗ってください」
「分かった」
基本的には店の主の美貌も相まって、客の入りは上場だ。たまに入店してくるOL達の目当ては孫息子だったりするもんなのだから、将陵家は世話ない家系だ。
9時には店を閉め、後片付けを始める。小料理屋にしてはやや早い店仕舞いだが、恵の性格上最後まで手伝ってしまうので、克美なりの配慮だった。
恵はゴミを詰め込んだ黒いビニール袋の口を縛り、裏口の外に置いてあるポリバケツに放り込んだ。
「う〜ん・・・ん?」
凝り固まった腰を伸ばして空を見上げると、奇妙なモノが視界に入った。
夜空を尾を引きながら流れて行くので、一瞬流れ星かと思った。だがいつまでも消えず、確実に地表に向けて落下している。
「あの辺って、確か『妖怪工場』・・・」
学校の裏山に中にある、廃墟と化している工場。夏には絶好の肝試しスポットで、西浦高校の生徒ではその気味悪さ故に『妖怪工場』で通ってしまう。
気になって走り出そうとすると、タイミング良く戸口が開いた。
「恵、こんな夜遅くに、何処へ行くんですか?」
克美が半身を出して呼び止めると、恵は肩越しに振り返った。
「ごめん、ばぁちゃん。チョッと学校に忘れ物しちゃったから、取りに行ってくるね。戸締りは僕がしておくから、寝てていいからね。じゃ」
走り出すと後ろの方で祖母の声が聞こえるが、恵は振り返らずに入って行った。
人の手が入れられていない藪の中を掻き分け、恵は廃墟が確認出来る位置までやって来た。来る途中に何箇所もショートカットしたので、思いの他早かった。
体力テストは学校ランキング2年連続1位なのに帰宅部。何人のスポーツ部のキャプテン達に、入部を懇願された事か・・・
月明かりを頼りに入ると、中は殺風景なものだった。錆びた鉄の臭いが時々鼻に届くが、取り立てて変わった所は何もなかった。塗装の剥がれた階段を上って、2階へと出た。辺りを見渡すと、ある1箇所に釘付けとなった。
天井が破れ、銀色の月明かりに照らされる床に、人が横たわっていた。
恵は知らず知らずの内に足を進め、その顔を覗き込んだ。
「・・・女の人だ」
倒れていた女性を負ぶって、恵は自宅に戻った。忍び足で自室に入り、布団に彼女を寝かせる。
月明かりでは良く分からなかったが、蛍光灯に照らされてその容姿に驚いた。整った顔や、紫の混じった銀髪は東洋人ぽくない。服装も奇妙で、RPGで女性キャラが着ている膝の見えるまでに短い、紺色のチェニックだ。
「綺麗な人・・・」
布団の横に座る恵は、不意にそんな言葉を漏らした。
顔に当たる光で、意識を深い所から引き上げられた。
目を開けて最初に視界に入ってきたのは、見知らぬ天井だった。
「・・・・・・」
恐らく1分ほど、瞬きもろくにせずに固まっていたのだろう。首を動かし、周囲の状況を確かめた。右側に首を動かすと、人物を捉えた。
壁に背を預け、寝息を立てている少年だった。その寝顔は幼く、見るからに純朴そうだ。
「―――何処だ?」
体を起こす事なく、誰とも無しに尋ねてしまった。
「うん〜〜〜〜〜〜〜っ」
数分の間を置いて、少年が目覚めたようだ。両手を挙げて背筋を伸ばし、盛大に欠伸をする。
「・・・何だか、背中が痛いなぁ」
ボキボキと骨を鳴らし終えると、少年は布団の中の住人に視線を向けた。
「あれ?気が付きましたか・・・ってか、僕よりも早く起きてたみたいですね」
苦笑する少年―――恵は、布団の中で驚いている女性に声を掛けた。
「貴様・・・」
「お腹空いてませんか?今ならばぁちゃんも店の方だから、食べ物取ってきますね」
立ち上がって部屋を出ようとする恵に、女性は慌てた様子で起き上がり、声を掛けた。
「おい、貴様!」
「はい?」
「・・・貴様、私が視えるのか?」
訳の分からない問いに首を傾げるが、正直に告げた。
「はい」
何故か驚愕そうな表情をしている女性を不思議に思いながら、恵は襖を閉めた。
タン、タン、タン、タン♪
軽快でリズム良く刻まれる包丁の音。このパーカッションの演奏者はYシャツの袖を捲くり、エプロンを付けた恵だったりする。その様は、主婦ならぬ主夫。
現在は家庭科の時間で、調理実習の真っ最中。周りでは料理などと全く縁の無い生徒達が、右往左往しながら作業を続ける。
「っとに、恵と一緒の班でよかったぜ」
浅野が寄り掛かる様に恵の肩に手を置くと、別の男子が頷く。
「だよなぁ。あんなクロスケハンバーグなんてゴメンだぜ」
親指で示された先には、表面を炭に変えたハンバーグが、白い皿の上で自分の色を主張していた。
「別に、特別上手な訳じゃないよ。店じゃ皮むきしかやってないし、料理だって出した事もないから」
「またまたぁ〜、謙遜しちゃってぇ。ほらぁ、見ろよ」
「ん?」
顎で示された方を見えると、2人の女子生徒が手を止めて恵を眺めていた。
「何?如何かしたの?」
「え?」
「あっ・・・その・・・」
「あぁ、包丁の持ち方はそうじゃなくて・・・」
自分の作業を一旦止め、後の回って躊躇う事無く手を重ねた。
「こうやって、包丁を持つ手は動かさないで、野菜を持っている手を動かして・・・如何したの?何だか真っ赤だよ?暑いの?」
耳まで赤く染めた彼女は一言も喋らず、されるがままに手を動かしていた。浅野は恵が切り終えた野菜をひき肉に放り込み、噛み殺し切れない笑みを浮かべていた。
「お前って天然だよな」
「天然?」
首を傾げる恵と女子生徒に、周囲の視線が注がれていた。
キ〜ンコ〜ン、カ〜ンコ〜ン
下校のチャイムが鳴り、生徒達が帰路に着く。
「ん〜〜〜〜っ。今日は久しぶりに、ブックオフでも寄ろうかな」
背筋を思う存分伸ばした恵は、カバンを担いで席を立つ。今日は店が定休日なので、久しぶりに寄り道が出来る。そして密かな楽しみが、ブックオフでの立ち読み。
意気揚々とドアの方に足を踏み出した瞬間、遠くの方から近づいて来る音に、本能的な危機感を覚えた。
ドドドドドドドドドドドドドドドドッ!!!!
大群の全力疾走行進が、盛大に教室に近づいて来る。
「おっ、かれこれ2週間振りか?恵・・・ん?」
浅野が恵を見たが、そこに彼の姿は無い。視線を窓の下に転じると、ベランダの床の外側から、茶色い毛玉が見えている。
「と云う訳で浅野、僕は帰る」
それだけ告げると、毛玉は落下した。
『将陵ぁーーーーーーっ!!!!』
男共が我先にと教室に突っ込んで、獲物の名を叫んだ。
「将陵ー!今日こそサッカー部に入部してもらおう!!」
「何をー!?奴こそは野球部が貰う!!」
「バカ野郎!アイツにはバスケこそ相応しい!!」
「いや、我がバレーボール部、希代のエースに成る男だ!!」
「違う!空手部でそこ、将陵の才能は活かされるのだ!!」
「いや、柔道部が!」
「いや、剣道部こそが!!」
「アメフト部こそが!!!」
「テニス部が!!!!」
各運動部のキャプテン達が入部届けを持参して、廊下で激しい争奪合戦を繰り広げていた。恵が1年の頃から続く恒例行事なので、この2年生の生徒達は慣れきっているのか、既にアウト・オブ・眼中。
彼らが獲物を逃した事に気付くのは、それから1時間後の事だ。
「困っちゃうんだよねぇ・・・店の手伝いがあるから、部活は出来ないって断ってるのに・・・」
大通りを1人で歩きながら、恵は目的地へ向かっていた。
恵の月のお小遣いは2,000円。今日びの高校生にしては少ないが、特に不満は抱いていないらしい。お金を使わず、古本なので安い値段で売られているブックオフを愛用していた。
赤信号で止まり、青に変わってから歩き出す。平和的な光景の中に混じって歩く恵は、電光掲示板から流れるニュースを目で追っていた。
不意に、近くのビルの窓に、影が映りこんだ。
宙を疾駆する、大柄な影。
「へぇ・・・?」
足を止めて後を視た時、それは恵を見ていた。
ドサッ!!
コンクリートに重い物体が落下し、潰れる音と砕ける音が耳に届き、その後は人工的な音は消え去った。
「あっ・・・あっ・・・」
赤い液体に染まり、自分の足元に転がる物体に、血の気の失せた恵は後ずさった。
「あっ・・・あっ・・・」
逃げ出したいのに、地面に吸い付いた様に足が固まっていた、
「きゃーーーーーーーーーーーーーッ!!!!」
女性の金切り声が、時間の流れを呼び戻した。
濁った目が、恵を写していた。
5時を過ぎても帰らない恵を待っていた克美は、警察からの知らせに耳を疑った。警察署まで来て、孫の引き受けをお願いする電話だった。
「・・・あの、孫が何か?」
≪いえ、そういう補導ではありません。だた事件に巻き込まれまして、何分、精神的にショックを受けているようで・・・≫
濁す刑事の言葉を聞きながら、克美は警察署まで足を運んだ。受付に名前を告げると、担当の刑事が恵の待つ待合室まで案内した。
「電話で事件と仰いましたが、如何いう事でしょうか?」
「そうですね・・・最近頻繁に起こっている、連続殺人事件は?」
「あの、全身切り刻まれたという、あの?」
「そうです。実を言いますと、お孫さんが現場に居まして・・・いえ、疑っているのではありません。周囲の目撃者の話によると、突然彼の目の前に降ってきたそうです」
「降って・・・?」
「我々が駆けつけた時も彼、固まった様に立ち尽くして、口も利けない状況だったので、所持品の生徒手帳から連絡先を調べて、お電話しました」
「それで、恵は?」
「一応、落ち着きはしたようです。ですが、1人で帰す訳にも行きませんので・・・ココです」
刑事がドアを開けると、そこには椅子に座った恵が、初老の刑事と雑談をしていた。
「ばぁちゃん?」
「おや、来たようだね。それじゃ恵君、今日はお家に帰って、早く寝るんだよ」
席を立つ初老の刑事に、克美は頭を下げた。
「何分、ありがとうございました」
「いえいえ。後日、改めて事件の事を聴く事になりますが、今日は休ませてあげてください。でわ」
2人の刑事が部屋を出ると、恵も自分のカバンを持って立ち上がった。
「・・・帰ろう、ばぁちゃん」
小さく呟くと、恵は黙ってドアを潜った。警察署を出て5分ほどしてから、重苦しく口を開いた。
「―――落ちてくる瞬間・・・」
2人の間には、重い沈黙が淀む。
「目が、合ったんだ・・・あの女の人と・・・」
思い出すだけでも、全身に不快な悪寒が這いずり回る。
「その時、ほんの一瞬だけ・・・いいなって、本気でおもちゃったんだ・・・」
自室に入ると、女性は朝のままで畳の上に座っていた。視線をずらすと、手付かずの朝食が置かれていた。
「・・・食べてないんですか?」
「食事は必要ない・・・それより、酷い顔だな?」
何気なく会話を逸らされた事に気付かず、恵は顔に影を作る。
「人が・・・死んで・・・」
「死んだ?」
「警察の人の話じゃ、最近起こっている連続殺人じゃないかって・・・」
女性は口元に手を置き、熟考してから尋ねた。
「その死体・・・血が大量に流れてなかったか?」
「え?まぁ・・・」
「全身から血の気、引いてなかったか?」
何処か鋭ささえ放つ目付きに、恵も流石に不審に思った。
「―――貴女は、何なんですか?」
少し低めに告げられた言葉で、2人の間に緊迫した空気が流れた。
リリリリリリィィィィィ・・・
重苦しい空気を追放したのは、耳に届けられた嫌な声だった。背筋に氷を宛がわれた様に、全身から冷たい汗が吹き出た。
「何、この声・・・?ライオン・・・?」
戸惑う恵から視線を外し、女性は顔を険しく顰めた。
「―――来たか!」
女性は布団を跳ね除けて立ち上がり、開け放った窓の縁に足を乗せた。
「あ、チョッと!」
「・・・もう、関わるな」
プラチナブロンドを靡かせて、彼女は飛び出した。
ドゴオオオオンッ!!バゴオオオオンッ!
爆発したり崩れ落ちたりする音が耳を痛めながらも、恵は真夜中の道路を走っていた。
―――僕は、何をやっているんだ!
あの女性が飛び出した後、恵は不快な声に向かって走って行った。あの様子から見ても、この声に従ってココへ来ているのだろう。
グラウンドを校舎へ向かって横断していると、盛大な音を立てて2階の窓が一斉に砕け散った。
「何が如何なってるんだ!?」
誰でもなく悪態を付き、構内に駆け込んだ。階段を駆け上がって2階に踏み込むと、あの女性の声が聞こえた。
「三爪奔!!」
意味不明な言葉を叫んだ途端、壁や天井にスジが奔った。一斉にそれを境に両断され、周囲の構造物が崩れ落ちた。恵も巻き込まれ、思わず声を上げてしまった。
「うわっ!?」
「なっ・・・!?貴様!?」
気付いた女性が罵倒しようとしたが、素早く顔を戻して右手を突き出した。
「嵐咆弾!!」
耳障りな音が鼓膜を刺激されると、狭い空間の一箇所に大気が押し寄せた。戦車の砲撃でもされた様に、コンクリートを粉砕していく。
「むぐっ!ゲホッ!ゲホッ・・・!!」
撒き散らされる噴煙に咽返っていると、同色の粒子のカーテンの向こうで『何か』が動いた。
天井に頭が着きそうなまでの巨体。隆々とした腕や脚の筋肉は、それこそ丸太の様に太い。背中を丸めたその姿は、原始的な霊長類を思わせる。
だが聴覚は低い唸り声だけではなく、甲高い音も拾っていた。ギアが変わる時の、金属の擦れる音。高圧の蒸気が抜け出る様な、細く高い音。脚を踏み出す度に鳴る、サスペンションの音。
右側から差し込む光に、胸部の鈍い鋼が反射した。
「機械・・・?」
「奴は悪魔」
「・・・悪魔?」
「機械の体を手に入れ、物理となった連中だ。奴らを『狩る』のが、私に与えられし『業』」
「狩る?」
「・・・私は天使。この世界の『生』と『死』、その均衡を守護する者だ」
猛々しく言い放つと、服の背中の布が盛り上がり、純白の翼が広がった。
「灼角狼!」
三度意味不明な単語と口走ると、彼女の厳然に火柱が上がった。特に火種などは無かったはずなのに、天井とを繋ぐ柱の様に立ち上っている。
―――何だ?夢・・・夢オチ?ドッキリ?看板は・・・?
目の前の現実離れした光景に、恵の脳内は情報飽和状態だった。
火柱は弾け跳び、中から四速歩行のシルエットが出現した。大型の犬の様な外見だが、顔はシャープな上に、筋肉が発達している感じが見て取れる。毛色は赤とオレンジで、微妙に表面が炎の様に揺れている。額からは、ショーテルを思わせる角が伸びている。
『呼んだか?』
「盟約に従い、異形と慣れ果てし魔を滅せよ!」
『承知!』
灼角狼は地面を蹴り、獣らしい咆哮を上げながら疾駆した。壁から天井、再び壁へとバネを犯して跳躍し、悪魔に肉薄した。後ろ足に力を溜め込み、全身を伸ばして肩に牙を突き立て、喰い千切った。
「グアアアアアアアアアアッ!!!」
太い爪の生えた豪腕を振り回すが、狼は身軽に天井へと逃れ、1回転後ろ側に着地した。腕が振り回される分瓦礫が量産されるが、動きが大振りな為隙が出来易く、金属で覆われていない生身を噛み付かれ、爪で裂かれていた。
「金属の部分が硬すぎる・・・ヴォルフの牙でもダメか・・・」
顔を険しくする女性の後で、恵は開口して押し黙っていた。
灼角狼を相手にする悪魔はなおも腕を振り回し、次第に自分で増やした瓦礫を投げ始めた。変貌した四角い通路を器用に跳ぶ狼に対し、人の形をした2人は避けられなかった。
「うわっ!?」
「クッ!嵐咆弾!」
放たれた空気の砲弾が、易々と岩塊を砂へと戻した。消火器から撒き散らされた消化剤の様に、一瞬視界が奪われてしまった。
その一瞬が、命運を別けた。
細かくなった岩の煙を引き裂く様に、豪胆な爪が横に動いた。
鮮血が、恵の頬を塗らした。
そして遅れるように、紺色の生地に更に濃い色を付けた女性が、倒れこんで来た。
煙が晴れた頃、あの炎の狼は消えていた。しばらく呆けていた恵だったが、女性の肩を掴んだ。
「しっかり・・・しっかり!!」
奥歯を噛み締めながら、女性は出血の酷い右腕を強く握った。
―――ダメだ・・・これ以上は可逆時間を越え、転写反転してしまう・・・
絶望的な状況に思考を巡らせていると、急に体が浮き上がった。
「うわっ!?」
「こんのォォォォォォ!!!」
雄叫びを腹の底から吐き出しながら、恵は女性を抱き上げてゴリラ風悪魔に背を向けた。全力疾走で階段を駆け上るも、後から地響きの様な振動が伝わる。
「下ろせ!奴には知能が無い!動けるお前より、捕獲し易い私に喰らいつくはずだ!」
「嫌だ!!」
「命が惜しくはないのか!?」
「誰かを見捨てて生きるだなんて、そんなの嫌だ!!」
屋上のドアを乱暴に開け放ち、恵はフェンスの近くまで走った。
「飛べますよね?」
「何を言っている・・・?」
女性を地面に下ろすと、恵は彼女の傍から離れた。
「少しだけ・・・本当に数秒、アイツを止めます」
少年から告げられた言葉に、女性は怒り心頭した。
「バカ者ッ!奴相手に、何が出来る!人間が如何にか出来る相手じゃないんだぞ!!」
「でも、僕はそうしたいんだ」
「バカだ!貴様は・・・!!」
苦々しく吐き捨てられる言葉に、恵は苦笑を漏らした。
「言われたんです、昔・・・弱い考え方をしろって」
「何の事だ?」
「その時、一番弱い考え方をして、それに反逆して生きろ・・・そうすれば、強い人間で居られるって。今の僕の弱い考えは、貴女を置いて逃げる事です。貴女しか倒せないのなら、貴女は生き残るべきです!」
外と中を隔てていたドアが、紙クズみたいに宙に放りだされた。コンクリートで固められた縁を突き崩し、のっそりとした緩慢な動作で、悪魔は身を捻じ込んだ。
「―――行って下さい」
あんな化け物を目の前にして、怖くないはずが無い。本当は今も、脚の振るえが止まらない。膝が笑って、1歩を踏み出すのにさえ時間を要した。
第1歩を踏み出そうとした時、後から手を捕まれた。振り返れば、彼女が血に濡れた手を伸ばしていた。
「―――“力”があれば、生きられるか?」
強い意思を宿した瞳で、問い正した。
「これは『契約』・・・悪魔を狩る『業』を背負う代わりに、我が力をくれてやる。お前は天使の力を得るが、魂の崩壊を呼び込む事となる・・・それは人としての生を捨て、人とは違う理で生きてゆく事・・・力はお前を孤独にしかしない・・・その覚悟、お前にあるか?」
2人の反対側で、巨躯の悪魔は確実に迫っていた。
「―――分かった。結ぶよ、その『契約』。それと、僕は将陵恵」
それが名前だと気付くのに、数秒掛かったようだ。美しい顔に微笑を浮かべると、恵の胸倉を掴んで自分の身を引き上げた。
「私の名はレクティ。お前と『血族』になる者の名だ」
自らをレクティと名乗った彼女は、腕の傷口に自らの唇を当て、口の端から血を流しながら顔を近づけてきた。何をするのか見当がついた時には、行為はなされていた。
舌に金臭い味が乗り、喉の奥へと注ぎ込まれた。嚥下された血は更に、体の深くに浸透していく。
ドクンッ・・・
心臓が、これまで感じた事ない鼓動を打った。
熱いモノが全身を駆け巡り、高揚感と恍惚感が感情を満たし、精神が肉体と魂を完全に噛み合わせた。
そして魂の底で、閃光が炸裂した。
空気が破裂し、周囲を嵐の様な螺旋の風が暴れ回った。
バシュンッ!!
白い尾を引きながら、超絶的な疾さで空へと飛び出した。
「グガ?」
悪魔が頭を上に向けると白煙が踵を返し、流星の様に落下して来た。一瞬、白銀の光が反射した。
カーンッ!ガツンッ!!
音叉の様に反響する金属音が鳴り響き、コンクリートの床が抉れた。ドサリと丸太の様な円柱の物体が落ち、床一面を紫の液体が斑を作った。
右腕を失った悪魔が、口から蜘蛛の糸の様な筋を引き伸ばしながら、あらん限りの絶叫を吐き出した。
白煙が薄まり、人型のシルエットが立ち上がった。巨大な鉄塊の様な大剣を右手に持ち、ゆっくりとした動作で向き直った。
白い翼が、白煙を薙ぎ払った。
「バカな・・・“騎士”だと?」
月の光を浴び、銀色に輝きを増す鎧。右手に携える大剣は、無骨で一切の飾りを廃した機能的な業物。背の中の翼は畳まれ、マントの様に靡いていた。
悪魔は自分の腕を切断した者に、猛禽を思わせる爪を生やした腕を、怒り任せに棍棒の様に振りかざした。
「あり得ない・・・“召喚師”である私の“力”ではなく、別の属性を発現させたなどと・・・」
騎士は消える様に背後に回り、残った左腕を斬り払った。
「天使を見る事の出来る人間など居ない・・・天使の力を得て、それを行き成り使いこなせる人間など居ない・・・何より、あんな巨大な“騎士”の剣など、見た事が無い!!」
両腕を絶たれた悪魔は、咆哮を上げながら走った。それは獲物に襲い掛かる猛獣ではなく、弱い生物が防衛の為に行う捨て身の様に映った。
騎士は一切臆する素振りも見せず、大剣を握る腕に力を込めた。腕周りが膨れ上がり、急激に筋肉が発達しているのが見て取れる。床を蹴って跳躍し、交差の瞬間に一閃した。
悪魔の巨体の中央に、紫の線が引かれた。それを境に体液が噴出し、体を燃やし尽くして消滅した。
白銀に輝く鎧に、煌きながら舞う焔が鮮やかに反射していた。
「―――白銀の・・・騎士」
この日から、僕は神話の回廊を歩み始めた
血を貪るモノ それを絶つモノ
ただ、重き刃を振るう
次回 HEAVEN'S DRIVE -the ENGAGE diabols-
第二節 悪魔−テキ−
そして皆、誰かの光に成る・・・