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渡世学園夜の理科室


その夜、渡世学園実習棟にはいくつかの人影があった。

「思ったより人数いてくれて、よかった」

「奪い合いやってた連中は大抵忘れて行ってるみたいだな。北里と御堂、あと相原はちゃっかり回収していってるが」

「じゃあ、これで全部か。日高と真崎はこういうことには無縁そうだしな」

「だね」

吉岡義仁、檜原花梨、立花照真、三浦穂波。彼らは現在、理科室に忘れてきた私物を取りにきていた。

「ところで、みんな何を忘れたの?私は財布だけど」

「俺はケータイ」

「筆箱」

「いつものライター」

「三浦の筆箱以外は割と問題ね・・・特に花梨、今能力使える?」

「ムリ」

「よね。となると、戦力は吉岡と私の銃だけ・・・この建物に入るには、ちょっと心もとないわね」

目の前にそびえる実習棟は、夜の闇と交わって異様な雰囲気を醸し出していた。夜の学校というのは普通に歩くだけでも恐ろしいものであるが、ここが理科室や美術室などが入っている校舎だと思うと余計に恐ろしい。おまけにここは渡世、想定外のハプニングなどあって当然だ。

「事務室は?」

「もう閉まってた。ブレーカーあげてもらうのは絶望的ね」

救いを求めるかのような吉岡の問いを無慈悲に切り捨てた三浦。というより、思いつく限りの解決策をすべて実行した結果が直接乗り込むしかないという結論なのである。

「じゃ・・・行くわよ!」

彼女らが校舎内に平然といることからも分かる通り、渡世の校舎は基本的に鍵をかけない。特殊能力者相手には無意味な措置であることに加え、渡世には悪意を持った人間が極端に少ないからだ。左手に銃を構え、立花は思い切って引き戸を開いた。

「・・・暗い暗い暗い暗い怖い怖い怖い怖い」

「吉岡!気持ちは分かるけど後ろで呟くのやめて!あんたのほうが怖いのよ!」

吉岡が沈黙すると、周囲が静寂に包まれた。今にも背景の闇から何かが現れそうな、張り詰めた静寂だ。

「す・・・進みたくない・・・花梨、前に行ってよ」

「や、やだよ・・・」

先陣を切る役割を負うことを恐れ、押し黙る一同。周囲が再び張りつめた静寂に包まれた瞬間、立花の携帯電話が鳴り響いた。

「ひっ・・・あ、真崎だ・・・もしもし?」

『夜の校舎はどうだ?』

「死ぬほど怖いわ」

『だろうな。どうせまだ入口で先頭を押し付けあってるような有様だろうが、進むんなら気をつけろよ。理科室の人体模型とか美術室の肖像画とか普通に動くから』

「さらっと恐ろしいこと言わないでくれる!?」

『入口の傘立てに色々置いてあるから必要なら使え。それじゃあな』

「待って!ちょっと待って!切らないでぇ!」

願い空しく、通話は終了した。おまけに待ち受け画面に表示されたのは『圏外』の文字。ホラーゲームで携帯電話が通じないのはもはやお約束だ。

「傘立てって言ったわね。あいつ・・・」

「これ?あ、ホントだ。傘以外にもいろいろ入ってる・・・」

覗き込んだ場所には、無数の置き傘に混じって金属バットや松明や槍、対戦車ライフルなどが立てかけてあった。最も役に立ちそうなものを各自勝手に引き抜くと、いよいよ校舎内に踏み込んだ。

「・・・何か、喋りなさいよ。なんでもいいから」

必然的に訪れた沈黙に耐えかね、立花が言った。

「良い太ももしてるわね、照真」

「いい尻してるよな、立花」

「あんたらは前に行け!」

小規模な配置交代の後、四人は目的地に向かって歩き始めた。理科室は一階の突き当たりであるため、そう長い道のりにはならないはずだ。

「一日一歩、三日で三歩。三歩進んで二歩・・・」

「下がってくんな」

歌詞に合わせて後退してくる三浦を押し留める立花。横では金属バットを携えた吉岡もまた別の歌を歌っていたりする。

「夜の校舎窓ガラス割って回った~・・・」

「割れるもんなら割ってみろ」

渡世学園の校舎は特殊能力者を収容することを前提にしているため、異常なほど頑強な建材で造られている。どう間違っても金属バットで破壊できるものではない。

「昔運び込まれたグスタフ砲とか真崎の持ってきたリトルデービットとかでも割れなかったからねー、これ」

「リトルデービットを持ってきたって表現おかしくないか?大砲だぞあれ」

会話の中身自体はともかくとして、雑談で恐怖ムードをなんとか払拭しようとする一同。しかし、やっとのことで作り上げた和やかムードもあまり長くは続かなかった。

「なんか聞こえない?こう、階段を何かが転がるような・・・」

三浦の一言に、会話を打ち切って耳を澄ませる一同。

「近いね」

「最寄りの階段は?」

「・・・真後ろ」

とっさに振り向くと、美術室にあるはずのデッサン用の胸像が今まさに階段でバウンドして4人に突っ込んでくるところだった。

「っしゃオラァァァ!!」

意味不明な雄叫びを上げ、飛んできた胸像に蹴りを叩き込む吉岡。数メートルほど飛んだ胸像は着地地点で再び直立し、床をものすごい速度で滑って距離を詰めてきた。

「うわぁぁぁぁぁ!やたら速いぃぃぃ!」

「近寄んな!こっちくんなー!」

半泣きになりながら銃撃を打ち込む立花。しかし相手は、見惚れるような曲線移動でそのことごとくを回避しながら迫ってくる。

「せやぁぁぁっ!」

立花が次弾を放てる間合いではなくなったのを悟った吉岡が、石膏の顔面めがけてスライディングを繰り出した。

「やったか!?」

その足は、地面から生えた真っ白な手に受け止められていた。唖然とする吉岡の目の前で、胸像はまるで地面に埋まっていた人がその体を地上に現すように立ち上がる。数秒後、4人の前には美しい肉体美を持った八頭身の胸像があった。

「いやぁぁぁ!なんて無意味な肉体美ぃぃ!」

「ガチムチだよ!まさかのガチムチだよぉぉっ!」

ここまでくれば、理屈は抜きだ。これはやばいと叫ぶ本能に従って4人は駆け出した。

「追ってきた!予想通り追ってきた!」

「でも思ったほど速くない!さっきのスライド走行よりは遅いぞ!」

「いや速度よりあのプレッシャー!無表情だし!無駄にランニングフォーム奇麗だし!」

「そりゃ絵のお手本にされるくらいだからな!」

「いいや違う!絶対あんな用途想定してない!静物画のデッサンに使う物体なのに思いっきり動いてるもん!」

どれほど走ったか、気が付くと石膏像はいなくなっていた。

「・・・振り切った・・・か・・・?」

「たぶ・・・ん・・・」

「おぇ・・・げほっ・・・脇腹痛い」

「ここはどこ?わたしはだれ?」

危機こそ逃れたものの、その代償は決して小さくはなかった。壁にぐったりともたれかかる檜原に死にかけの立花、ようやく再起動に成功した三浦。

「ってか、ここどこ?」

「暗いからよくわからないけど、どうも4階っぽい。ほらそこに音楽室が・・・」

「あー、あの直立不動の音楽家がいるところね」

「そうそこ。あの昔の偉人っぽい人達が立ってるとこ」

「「「「・・・・・・」」」」

「この妖怪変化が!死ねぇぇぇぇっ!」

「落ち着いて照真!もう死んでるからその人たち!」

肖像画から抜け出してきたらしいその人物たちに向かって持っていたライフルを乱射する立花。正確無比なヘッドショットが決まると、それらは霧散して消えた。

「・・・実体はないのね。肖像画がモチーフなあたり、幽霊ってわけでもなさそうだけど」

「それより見て、まだ何かいる。よく見えないけど・・・」

霧散してゆく歴史上の音楽家に混じって一人、こちらを見ている影があった。

「・・・何か言ってる」

『俺の・・・』

うすぼんやりとしたその影をじっと見つめる4人。やがて、その姿ははっきりと視認できるまでになった。

『俺の歌を聞けぇぇぇ!』

「これ歴史上の偉人じゃないでしょうが!」

「いや確かにすごい人だけどね!歌で世界を救っちゃう人だけどね!」

そこには、赤いコートにグラサンの男が立っていた。

「もうなんでもいいよぅ・・・帰りたい」

冷静に考えてみれば、かなりまずい状況である。何をどう間違えたか4階まで登ってきてしまった上、たった今照真に銃撃されているグラサンの男のように得体のしれないものもわんさかいるようだ。何よりあの胸像(最終的に胸じゃなくなっていた)もあくまで振り切っただけであり、根本的なことは何一つ解決していない。

「・・・諦める?」

「いや、そうもいくまい」

「そっか、結構大事なんだよね。花梨のライター・・・」

そもそも事の発端は、檜原が忘れ物をしたから誰か一緒に付いてきてくれる人はいないかとメールと電話で呼びかけたことである。正直なところ吉岡や三浦の忘れ物は本人たちにとっては大して重要ではなく、誰かが行くならついでにという感覚だった。合理性を考えるならだれか一人を浮かせて取ってきてもらうという手段もあったが、見ての通りの状況のこの校舎に生徒一人を放り込むのは外道のすることであろう。御堂や相原、北里などの移動能力に長けたメンバーに依頼することも考えたが、相原は肉眼で目視した場所にしか移動できないという難点があり、御堂に至ってはあくまで高速移動能力のためいずれにせよ校舎内に一人で進入してもらわなければならない。一瞬で事の済むのは北里だが、彼女に依頼することのあまりにも重い代償は女性陣のよく知るところだった。

「うん、初めて私の能力を認めてもらった証だから・・・」

「その証をあっさり忘れて帰るのはいかがなものかと」

「本当に大切なものは無くしてから初めて気が付くものなのよ」

「いや、そんな精神論的なものじゃなくてだな」

話の流れを断ち切ったのは、吉岡だった。彼は次いで後ろにある音楽室の入り口を指す。

「あれって確か・・・」

「うん、偉大な音楽家シリーズの・・・」

死期よ今かとばかりにやつれたその男は、彼らの目の前で唐突に叫び声を上げた。

『俺の尻を舐めろ!』

「あれだ!晩年のモーツァルトだ!ちょっと精神に異常をきたしてたって噂の!」

「誇張表現ってレベルじゃないわよ!?うわ、こっち来た!」

「逃げろ!よく分からんが逃げろ!捕まったら多分ロクなことにならん!」

「もう、こんなんばっかりー!」

再び校舎内を駆ける四人。渡世学園の夜はまだ始まったばかりだ。





「・・・もう追ってこないね」

「音楽室近辺が行動範囲なのかしら・・・」

肖像画から実体化したモーツァルト(っぽい狂人)を、なんとか振り切った一同。

「1階まで降りてきたあの胸像のこともあったから、油断はできんな」

「そういえば美術室前よね、ここ・・・」

この美術室には、授業で使用する胸像や写真の他に生徒の制作した品もあちこちに飾ってある。ただし優秀な作品が飾られるというわけではなく、また一定期間毎に次の作品へと入れ替えられる。そして生徒の作った品なので、飾られているのは大抵かなりシュールな物体だ。

ホラーテイストな画風で描かれた生徒たちの似顔絵。

さわやかな笑顔を浮かべる木彫りの男性像(全裸)。

凄まじくリアルな顔をしたトーテムポール。

名状し難きおぞましさを持った粘土細工。

やたら美脚かつ爆乳な石像。

西洋風の鎧。

石仮面。

Nice.boat。

他にも幾つかあるが、それらがここに来るまでにみた品々同様に動き回っている光景は、一言で言うと地獄絵図だ。

「SAN値がごっそり持ってかれた・・・」

「逆に何か、変な笑いが出そうだ」

※SAN値・・・正気度。0になると発狂。

「ってか、なんかあのトーテムポール見覚えあるぅ・・・」

「確か購買にあったよね、ちょっと前」

何となく目についたそれに少し注意を払うと、あることに気が付いた。

『なあ嬢ちゃん・・・スケベしようや』

『通報しますよ』

『そんな事言わんといてや・・・なあ、エエやろ?』

「喋ってる・・・」

相変わらず常軌を逸した光景が展開されているが、もういちいち驚いてはいられない4人であった。

「ってかトーテムポール・・・お前顔面しかない体で何をしようと思ってるんだよ」

「まさに手も足も出ないわね」

「いやでもアレだからな、例の胸像の事もあるしな」

「手足どころか胴体も生えたからねアレ」

「っていうか、あんなもの見てる場合じゃないでしょ」

三浦がそろそろ行こうと手で合図し、それにつられて全員が同じ方向に体を向ける。それにともなって移動した視線の先にあったのは、筋骨隆々の白い肌。

「・・・・・・」

吉岡は、何もない空間に『呼んだ?』と言う台詞を見た気がした。

「おんどりゃぁぁぁ!」

唐突に放たれた吉岡の足払いが決まり、ビターンと石膏にあるまじき生々しい音を立てて胸像(元)が転倒する。次に来る彼らの行動は、もちろん逃走だった。

「もうやだぁぁ!何この校舎!」

「そろそろ・・・体力の限界・・・」

「こうなったら・・・少しでも時間を稼ぐ!」

三浦はそう言うなり綺麗なフォームで疾走してくる石膏像に向かって『白兎』を呼び出し、投げつけた。それは石膏像の顔面に的確に張り付き、全裸の像がバニーマンと化す。

「だからどうしたっていうんだよ!」

「ごめん、何にも考えずに言った!」

更に気持ち悪さを増した石膏像に加え、有象無象の美術品たちが群れを成して襲ってくる。吉岡が一つ舌打ちし、それらに真っ向から向かい合った。

「俺がここで食い止める!お前らは先に行け!なあに、すぐに追いつくさ!」

「ここまでわかりやすい死亡フラグ立てるやつ久々に見たわよ、もう!」

立花が彼の後ろに立ち、銃を構える。

「前衛はあんた!援護射撃はするけど、残弾全部打ち切ったら逃げるからね!」

「・・・了解!」

襲い掛かってきた粘土細工の触手を立花の銃撃が吹き飛ばし、本体を吉岡の金属バットがタイムリーヒット。背後にいた生徒の肖像画数点を巻き込み戦闘不能にする。小物が立花の銃撃で吹き飛び、その中を掻い潜ってセクシーな石像が突っ込んでくる。それの放った蹴りを吉岡が止め、どこまでも石なその足の感触にがっかりしながらハンマー投げの要領で投げ捨てた。

「ちょ、なんでこっちに投げ――あばら!」

「あ・・・」

さて一方、逃走に成功した非戦闘員二人。しかし、檜原の様子がどうにもおかしい。まるで濡れた小動物のように活気がないのだ。能力を使えない状態に置かれると途端にしおらしくなる彼女の特性を差し引いても、いささか大人しすぎる。

「どうしたの?さっきから足元ばかり気にしてるみたいだけど」

「・・・なんでもない・・・」

「そう?」

顔を赤らめて視線をそらす檜原を見、それ以上は追及しないことにして吉岡・立花の帰還を待つ三浦。あの美術室と音楽室を見た後で理科室だけがまともな空間とは到底思えず、主戦力二人が不在の状況で突入するのは危険極まりないというのが彼女の判断だった。

「やだなー・・・ってかまず突入どうこう以前に今なんか来たら詰むじゃん・・・」

「・・・・・・」

夜間照明に照らされた廊下は程よく不気味に薄暗く、他の設備と同様に鍵の掛かっていない理科室は内側から人の理解の及ばぬ何かによって開けられてもおかしくはない。極度に緊迫した数分間の後、三浦は遠くからやってくる人の足跡を聞いた。

「・・・おかえり。なんで照真ちゃんは気絶してるの?」

「いや、ちょっとした事故があってな・・・」

「美術室のは、もう追ってこない?」

「ああ、これを見ろ」

肩に担いでいた立花を地面に下ろした後、吉岡は追っ手を全滅させたという証拠として持っていた物を掲げてみせた。

「大将首だ」

彼の取り出したそれは、胴体を無くし元の姿に戻った胸像だった。

「それ首じゃない!本体!一番やばい奴の本体!」

「おバカ!何で持ってきたの!」

宿っていた霊力的な何かが切れたのか、とりあえずそれが動く気配はもうない。これをどうしようかと悩んでいる内、立花が目を覚ました。

「さっさと忘れ物取って、終わりにしましょ・・・」

彼女の一言を受け、彼らが出した結論は『放置』。明日早めに登校して戻しておけば、咎める者もいないだろう。

「じゃ、行くか!」

吉岡が金属バットを構えると同時にドアが開く。ただし誰の手によるものでもなく、内側から。

「え?あれ?」

開いたドアの向こうには、夜間照明にライトアップされたことによって不気味さを一層増した人体模型。ついでに一つ付け加えるなら、ドアを開いたそれは無粋な侵入者たちに向かって今まさに力強く一歩を踏み出さんとするところだった。

「「「いやぁぁぁぁぁぁ!」」」

「ぎいやぁぁぁぁぁぁぁぁ!」

戦鬼の能力を瞬間的に全開にし、全身を連動させて持ちうる力の全てを一点にたたきこむ吉岡最大の必殺技『クリムゾン・ストライク』。自立機動する人体模型に対して彼の防衛本能が放った一撃が、筋繊維と骨格を誇示する頭部を吹き飛ばす。理科室内部を人体模型の頭部が跳ね回る光景にSAN値(正気度。0になると発狂)をがっつり削られながらも、4人の行動は実に的確なものだった。

「突入っ!」

頭部を失い崩れ落ちる人体模型を蹴飛ばし、理科室へ踏み込む。壁や備品が溶け崩れているせいでこの世のものとは思えない異様な空間となった教室は、実にラストステージにふさわしい光景だ(こうなった原因は16話参照)。

「目標は・・・あうっ!痛っ!?」

檜原が人体模型の足に躓いて転倒、さらに起き上がる際に机の角に頭をぶつける。そしてとどめにとばかりに濡れていた床で足を滑らせて後頭部を強打した。

「うぇぇ・・・痛いよう・・・もうおうち帰りたい・・・」

「今夜の花梨は普段の6割増しでアホっぽく見えるわ・・・」

「・・・待て、三浦。何か聞こえる」

檜原を助け起こし、そのまま前進しようとした三浦に警告を発する吉岡。耳を澄ませてみると、何か水気を含んだものが地面を這いずるような音が聞こえる。

「この匂い・・・確かホルマリンとかいう薬品の・・・」

「ホルマリン漬けの死体が動いてるとか、そんなベタなのはやめてよね」

さすがに理科室に死体など無いはずだが、全くないとは言い切れないのが渡世の怖さだ。事実、理科準備室と呼ばれる倉庫のような部屋は理科教諭数人によって私物化されており、中に何が入っているかを知っている生徒は非常に少ない。

「いや、死体じゃない。あれは・・・」

一番早くその正体を補足したらしい吉岡が、静かに告げた。

「ホルマリン漬けの・・・フランス人形だ」

「なんで漬けたの!?バカじゃないの!?」

元々腐敗するものでもない人形を保存用の薬液に漬けた理由とは一体なんなのだろう。

「理由はよく分からんが間違いない。でもあの速度なら大丈夫だろう・・・多分」

「いきなり加速したらもう泣くからね」

立花の懸念とは裏腹に人形の速度は変わらず、非常に緩やかな速度で理科室内を移動しているだけだった。よく見ると動き回っているのは一体だけではなかったりするのだが、真に恐ろしいのはそこではない。

「ホルマリンの蒸気って、確か有毒よね」

理科室内に立ち込める異臭。長い間居れば体に異常をきたすのは間違いない。

「どっちにしてもあんまり居たくはないな」

まずは最寄りの場所にあった立花の財布を回収、続いて吉岡の携帯電話を入手する。問題は少し離れた位置にある三浦の筆箱と、入り口から最も遠い位置にある檜原のライターだった。

「じゃ、そういうことで・・・」

「逃げないで。見捨てないで。置いていかないで」

自分の目的を達成するやいなや逃げ出す二人を、必死の形相で止める三浦。

「ん?あの人体模型・・・動いてない?」

逃げようとした最大戦力を引き止めた結果、全員の視線は理科室入口へ。その先では、吉岡の一撃によって頭部を失った人体模型が何かを掴んでふらりと立ち上がる所だった。

「おい、まさかあれ・・・」

硬直する一同の視線など構わず、人体模型は掴んでいた胸像を自身の頭部の代替としてはめ込んだ。

「・・・合体しやがった・・・」

その後の惨劇を予想するのは、4人にとってさほど難しい事ではなかった。

「うわぁぁぁぁ!こっち来たぁぁぁ!」

予想は出来ていても、対応が出来るかどうかは別問題である。オリンピック級のジャンプ力で飛び掛かってきたパブリックエネミー(三浦命名)を前に、パニック状態の彼女ら。教卓を飛び越えて逃げる三浦に、更に奥へと逃げる立花。まずいことに、檜原が腰を抜かしてその場にへたり込んでしまった。

「上等だオラァァッ!」

胸から上は石膏製、両手両足はプラスチック製の襲撃者に吉岡が突進、がっちりと組み合う。

『ねえ君・・・今日のパンツ、何色?』

『良いじゃないか・・・減るもんじゃないだろ?』

「なにこれキモい!気を付けて!」

ホルマリン漬けのフランス人形には、どうやら薬液と一緒におっさんの執念が染み込んでいるようだ。野太い声で喋るそれに銃撃を叩き込みながら逃げ惑う立花や、机の上を飛び移って避難を続ける三浦はまだマシな部類だろう。ちなみに染み付いている思念がおっさんであるためか、吉岡には反応すらしない。そして言うまでもなく、一番哀れなのは腰を抜かして立ち上がれない檜原だった。移動力が無いせいで取り囲まれ、おまけに床を這って逃げようとするせいでホルマリン人形とばっちり視点を合わせてしまっている。

「やだぁぁ!助けてぇぇぇ!おとーさーん!」

「ごめん、私じゃ無理だわ」

「来んな!近寄んな!」

戦闘力を持たない三浦に、弾の切れた銃で対象を刺突するのに精一杯の立花。パブリックエネミーの相手でそれどころではない吉岡。もはや誰も頼れない状況だ。

「やばい・・・こいつ至近距離で見てると精神が不安定になってくる!」

胸部から上は純白、それ以外は剥き出しの骨格と筋肉という凄まじいバランスを前に圧され気味の吉岡。精神の摩耗が祟ったか、力の均衡が崩れる。彼を跳ね除け、再び大ジャンプで少女達に襲いかからんとするパブリックエネミー。

「ちっ・・・逃がさん!」

体勢を崩しながらも、最後の力でその足を掴む吉岡。決死の行動は功を奏し、またもビタァンと生々しい音を立ててそれが床に叩きつけられた。しかし、よりにもよって檜原の目の前に。

「ひっ・・・あ・・・」

眼前数センチの位置に振り下ろされた白い無表情。勿論、吉岡に悪意があったわけではない。しかし皮肉にも度重なる精神攻撃のラストを飾るかのようなその光景に、檜原花梨は脆くも決壊した。それに構わず、むしろそうなったからこそ容赦なく群がるおっさん憑きフランス人形への抵抗も酷く弱々しい。

「やぁ・・・助けて・・・照真ぁ・・・」

「ごめん、悪いけど・・・!」

立花照真の能力は、何も銃だけに働くものではない。バットで打った弾、蹴ったボール、投げた物。大まかに言えば『立花照真の行動によって放たれた物質全て』に適応される。今回も当然例外ではなく、彼女の投げた檜原のライターは狙い違わず持ち主の手のひらに納まった。

「自分で、何とかして」

ライターに火が灯る。鋼鉄すら容易に融解させる火炎の火種として。

「・・・うん、そーする」

『着火』した檜原の周囲に、蒸気が立ち昇ってゆく。人形のホルマリンと彼女の足下の水たまりが一瞬で蒸発した結果だった。

「よくも・・・よくもこんな恥ずかしいことさせたなぁぁぁぁっ!」

踵を返して逃げようと人形達が一瞬にして炭化し、その脚力で逃げようとしたパブリックエネミーがバーナーの様に志向性を持った彼女の炎に溶断される。半ば理性の飛んだ彼女によるあまりにも一方的な処刑は、これぞまさに虐殺と言える光景だった。

「・・・顔から火が出る思いとはこのことか」

「出てる出てる。実際に出てるから」

今まで見た中で最も激しい炎を灯す彼女を見ながら、3人は不燃性のカーテンにくるまって静かに震えていた。

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