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同じ軌道

作者: 髙山あきら
掲載日:2026/11/01

本作には、天文学と物理学に関する話題が登場します。


星の光が地球に届くまでには長い時間がかかり、私たちが夜空に見ているのは、遠い過去に放たれた光なのだそうです。また、重力は惑星や人工衛星の運動を説明するうえで重要な役割を果たしますが、一般相対性理論と量子力学を統一する理論は、現代物理学に残された課題の一つとされています。


調べていくなかで知った宇宙の現象や物理学の未解決問題を背景に、人と人との出会い、別れ、そして時間が過ぎてから気づく思いを描きました。


物理学における重力と、人が誰かに惹かれること。その二つを重ねた物語として、お読みいただければ幸いです。








 街灯の下に、長い髪の女の子がいた。スウェットのポケットに片手を突っ込み、自転車に寄りかかっている。同じ年ぐらいだろうか。


「こんな公園じゃ、星なんてまともに見られないでしょ?」


 いきなり声をかけられ、僕は顔を上げた。


 彼女は僕の足元に置いた望遠鏡を見ていた。近くには幹線道路があり、マンションの窓や街灯からこぼれる光が夜空を白く濁らせている。星を観察するには、あまりいい場所ではなかった。それでも、自転車で来られる範囲に、ほかに適当な場所を知らなかったのだ。


「まあ、そうだけど」


「だったら、もう少しましなところを教えてあげる」


 彼女は自転車にまたがった。


「ついてきなよ。街灯は少ないし、星はよく見える。ただし、ものすごく治安が悪いけど」


「どこなんだよ、それ」


「河川敷」


 彼女は川の方を指さした。


 星を見る場所を探している人間に、治安の悪さを理由に勧められるとは思わなかった。僕は少し考えてから、望遠鏡を片づけることにした。


 河川敷は、公園よりも街灯が少なかった。住宅地の明かりはまだ届いていたが、明るい星を観察するには十分で、家から自転車で通える場所としては悪くなかった。街そのものから離れれば、もっと暗い空が見られる。それでも、いつもの観測にはここで足りた。


「ね、こっちの方がいいでしょ」


 彼女は自転車を土手の脇に停めた。


「確かに」


 僕は空を見上げた。街の明かりに淡く霞んではいるものの、冬の星座は見つけられそうだった。


「で、何を見るの?」


「その日の空によるけど、今日は冬の星座が見やすいかな」


「冬の星座って、オリオン座とか?」


「そう。あそこに見える三つ並んだ星が、オリオンのベルト」


 僕が空を指すと、彼女は顔を上げ、指先の先を探した。


「ほんとだ。三つ並んでる」


 僕は鞄を下ろし、望遠鏡を取り出した。三脚を据えて鏡筒を載せ、空の様子を確かめながら向きを調整する。彼女はすぐそばで、その手元を眺めていた。


「覗いてみる?」


「いいの?」


 彼女は少し身をかがめ、接眼レンズに目を当てた。しばらくして、顔を上げる。


「ねえ、星が揺れてる」


「大気のせいだよ。星の光が地球の大気を通るとき、空気の状態によって光の進み方がわずかに変わるんだ。それで、揺れて見える」


「本当は揺れてないの?」


「星そのものが、あんなふうに揺れているわけじゃないよ」


 彼女はもう一度、接眼レンズに目を当てた。


 僕はその横顔を見ながら、望遠鏡の向こうにある光のことを考えていた。あの光が生まれてから、千年以上の時間が流れているのかもしれない。その長い時間を越えて、いま僕たちは同じ光を見ている。そう思うだけで、胸の奥が落ち着かなくなるほどの興奮を覚えた。


 星の光がここに届くまでの時間に比べれば、僕たちがこうして過ごす夜など、ほんの一瞬にすぎない。それでも、遠い過去から届いた光を、僕たちは確かにいま見ている。


「何を考えてるの?」


 彼女に尋ねられ、僕は我に返った。


「いや、別に」


「ふうん。変なの」


 彼女はそう言って、空を見上げた。


「私は、あの星座の話が好きだな。オリオン座。あの人、最後はサソリに刺されて死んじゃうんでしょ?」


「そういう神話があるね」


「かわいそうだよね。強かったのに」


「強かったからこそ、という話もあるんじゃないかな」



「何それ。星の話になると、急に難しいこと言うね」

 彼女は呆れたように肩をすくめた。

 

「君、名前は?」


「三浦悠人」


「私は詩乃」


 名字は教えてくれなかった。僕も、それ以上は聞かなかった。


 その夜、僕たちは遅くなる前に帰った。別れ際、詩乃は自転車のペダルに足をかけて言った。


「また来る?」


「天気がよければ」


「じゃあ、またね」


 彼女は軽く手を振り、街灯の並ぶ道へ走っていった。


 次の週、河川敷へ行くと、詩乃は先に来ていた。自転車のそばに立ち、川の向こうを眺めている。僕に気づくと、片手を上げた。


「遅い」


「約束した覚えはないけど」


「そうだっけ」


 彼女は悪びれもせず、笑った。


 それから、僕たちは何度か同じ場所で会うようになった。毎週と決めていたわけではない。僕が行けば詩乃がいることもあれば、誰もいない夜もあった。会えなければ、それで終わりだった。それでも、空が晴れた日の夕方になると、僕は河川敷のことを思い出すようになった。


 詩乃は星の名前を覚えるのが早かった。神話に登場する人物のことや、星座にまつわる話をよく知っていた。一方で、星までの距離や光度を説明すると、途中で飽きたように空を見上げてしまう。


「そういうの、覚えて何になるの?」


「知りたいから」


「それだけ?」


「それだけだよ」


「変なの」


 彼女はいつもそう言った。


 ある晩、僕は温かいミルクティーを二本買って、河川敷へ向かった。詩乃はいつもの場所にいて、自転車のそばで空を見上げていた。


「はい」


 一本を差し出すと、彼女は少し意外そうな顔をした。


「何これ?」


「ミルクティー。寒いから」


「ふうん。気が利くじゃん」


 詩乃は笑い、缶を受け取った。


「ありがと」


 僕たちは並んで土手に腰を下ろした。缶を握ると、冷えた指先に温かさがじんわりと広がっていく。やがて雲が流れ、星がひとつ、またひとつと夜空に姿を現した。


 しばらくして、空が雲に覆われた。星が見えなくなると、僕は鞄から一冊の本を取り出し、小さな赤いライトでページを照らした。重力の起源と、物質や情報の関係を扱った本だった。夜空を見上げるたび、僕はそこにある星のことを知りたいと思う。けれど、星の位置や明るさを調べるだけでは、まだ届かない問いがあった。何度読み返しても腑に落ちない箇所に指を置き、僕はまた前のページに戻った。


「何を読んでいるの?」


 詩乃が、赤く照らされたページを覗き込んだ。


「重力についての本。重力が、もっと根本的なものから生じているんじゃないか、という考え方が紹介されているんだ」


「重力は、まだ分かっていないの?」


「分かっていることはたくさんあるよ。惑星の運動も、人工衛星の軌道も、一般相対性理論でかなり正確に説明できる。でも、重力と量子力学をどう統一するかは、まだ解決していない問題なんだ」


「情報という言葉も出てくるんだね」


「うん。物質の状態を記述する情報が、重力とどう関係しているのか。そういう問題も研究されているんだ」


 詩乃は僕の手元の本を覗き込んだ。難しい数式が並ぶページを見て、眉を寄せる。


「私には、ちょっと難しそう」


「僕にも難しいよ。まだ仮説の段階の考え方もあるし、全部が分かっているわけじゃない」


「じゃあ、私たちがこうして惹かれ合ったのも、重力が関係しているのかな」


「え?」


 顔を上げると、詩乃は空を見ていた。


 冗談だったのか、科学の話の続きを尋ねただけなのか、僕には分からない。望遠鏡の金属部分に触れていた指先が、急に冷たく感じられた。


「物理的には、僕たちの間にも重力は働いているよ」


 ようやく答えると、詩乃がこちらを向いた。


「そういうことじゃなくて」


 彼女は笑った。僕は本を閉じ、鞄にしまった。

 

 十二月が近づくと、夜の空気はますます冷たくなった。河川敷に着くころには、指先の感覚が鈍くなっていることもあった。詩乃は相変わらず薄手のスウェットで来ることがあり、僕が寒くないのかと尋ねると、「動けば平気」と答えた。


 ある夜、彼女は空を指さした。


「あれ、赤いね」


 視線の先には、冬の星座の中でもひときわ目立つ星があった。


「ベテルギウス。オリオン座の肩にある星だよ」


「赤い星って、何か違うの?」


「表面の温度が低いんだ。ベテルギウスは赤色超巨星で、太陽よりずっと大きい。いつか超新星爆発を起こすと考えられている」


「いつかって、いつ?」


「それはわからない。いつか爆発すると考えられているけど、正確な時期はわかっていないんだ」


「何万年も?」


 詩乃は、赤い光をじっと見つめた。


「そんなに大きな星でも、いつかなくなるんだね」


「星も永遠じゃないから」


「そっか」


 彼女はそれ以上、何も言わなかった。


 僕たちは冬の大三角を探した。ベテルギウスと、こいぬ座のプロキオン、おおいぬ座のシリウス。三つの星を結ぶと、夜空に大きな三角形が浮かび上がる。


「シリウスって、すごく明るいね」


「夜空でいちばん明るく見える恒星だからね」


「近いの?」


「星の中では比較的近い方だよ。それでも、光が届くまでに八年以上かかる」


「八年……」


 詩乃は、少しだけ目を細めた。


「じゃあ、今見てるのは、八年前の光なんだ」


「そういうこと」


「変な感じ。今そこにあるものを見ているのに、本当は昔の姿なんだね」


 僕は頷いた。


 星を見るとき、僕はいつもそのことを考える。何万年も前に放たれた光が、宇宙を渡り、長い時間をかけて地球に届く。僕たちは望遠鏡を覗き込み、その過去を見ている。星がどれほど遠くにあっても、光は時間を越えてここまでやってくる。


 そのことを考えると、どうしようもなく胸が躍った。けれど同時に、僕たちが生きている時間の短さを思わずにはいられなかった。何万年という時間の中では、人の一生も、こうして誰かと過ごす夜も、あまりに短い。


「ねえ、悠人」


 詩乃が呼んだ。


「もし、ずっと遠くにある星がなくなっていたら、私たちにはわかるの?」


「星が放った光が届かなくなれば、いつかはわかるよ。でも、星がなくなった瞬間に、すぐ見えなくなるわけじゃない」


「じゃあ、もうなくなっている星を見ていることもあるんだ」


「そうだね」


 詩乃は、しばらく黙っていた。


「なんだか不思議だね。もうそこにはないものが、まだ見えるなんて」


 僕は、彼女が何を考えているのか尋ねなかった。


 それからしばらく最後に、詩乃は河川敷に来なくなった。


 一週間が過ぎ、二週間が過ぎた。空は晴れていた。冬の星座は、いつもと変わらず夜空に昇っていた。それでも、土手の脇に自転車が停まっていることはなかった。


 僕は何度か、いつもの場所で一人、望遠鏡を組み立てた。星を見て、記録をつけ、片づけて帰った。詩乃がいないことに慣れようとしている自分に気づくたび、なぜ連絡先を聞いておかなかったのだろうと思った。けれど、あの夜まで、また会えることを疑っていなかったのだ。


 十二月の終わり、久しぶりに河川敷へ行くと、詩乃がいた。


 彼女は自転車のそばに立っていた。いつものスウェットに、長い髪。僕を見つけると、少しだけ気まずそうに笑った。


「久しぶり」


「うん」


 僕は何を聞けばいいのかわからず、望遠鏡の入った鞄を地面に置いた。


「しばらく来られなかったんだ」


「何かあったの?」


 詩乃は川の向こうを見た。堤防の向こうを走る車のライトが、暗い道に細い線を引いていた。


「私、引っ越すことになった」


「引っ越す?」


「うん。ここから遠いところ」


 彼女は自転車のハンドルに手を置いた。


「父親のところ。両親が離婚することになって、私はお父さんと暮らすことにしたの」


 詩乃は、堤防の向こうを走る車のライトを眺めていた。


「お父さんの方が経済的には余裕があるし、私にあまり関心もないから、かえって楽だと思う。今までより勉強する時間も取れるし、大学もいけるかもしれない」


「大学?」


「うん。今まで勉強なんてめんどくさいと思ってたけど、ちょっとやってみたら意外と成績が上がったんだ。君の好きな星の本も、少し読むようになったよ」


 詩乃は手袋を外し、指先をこすり合わせた。


「図書館で働いたら読み放題だし、よくない?」


 僕は笑った。


「詩乃なら、きっとなれるよ」


「そうかな」


 彼女は小さく頷き、また堤防の向こうへ目を向けた。


 僕は、何かほかに言うべきことがあるような気がしていた。けれど、言葉は見つからなかった。


「いつ引っ越すの?」


「もうすぐ。年が明ける前には」


「そっか」


 詩乃は頷いた。


「だから、今日が最後かもしれない」


 風が吹き、彼女の長い髪が頬にかかった。詩乃はそれを指で耳にかけた。


「ねえ、悠人。星って、ずっと同じところにあるの?」


「いや。星も動いているよ。地球も動いているし、星そのものも宇宙を移動している。ただ、あまりに遠いから、僕たちが生きている時間では、ほとんど変わらないように見えるんだ」


「じゃあ、同じ星を見ていても、少しずつ違う場所にいるんだね」


「そうだね」


 詩乃は空を見上げた。


「なんか、いいね」


 それが何を指しているのか、僕にはわからなかった。星のことなのか、遠く離れた場所にいても同じ空を見上げられることなのか、それとも、別の何かなのか。


 僕は聞かなかった。


 その夜、僕たちはいつもより長く星を見た。詩乃は望遠鏡を覗き込み、星の名前を尋ね、僕の説明を聞いては、時々、少しだけ違う話をした。僕はそれに答えながら、彼女の声や仕草を覚えておこうとしていた。


 帰り際、詩乃は自転車にまたがった。


「じゃあね、悠人」


「うん」


 詩乃は小さく手を振り、自転車を走らせた。後ろ姿が街灯の光の中へ遠ざかり、やがて見えなくなった。


 僕はしばらく、その場に立っていた。空には冬の星座があり、シリウスは相変わらず明るく瞬いていた。やがて望遠鏡を片づけ、僕も家路についた。


 それから数か月が過ぎた。


 春の夜、二十三時。僕はいつものように河川敷で望遠鏡を組み立てていた。冬の星座は西の空へ傾き、東には春の星座が昇っている。星図を開き、今夜観測する星を探していると、ふいに、初めて詩乃に望遠鏡を覗かせた夜のことを思い出した。


「ねえ、星が揺れてる」


 あのとき、詩乃は不思議そうにそう言った。僕が大気のせいだと説明すると、彼女はもう一度、接眼レンズに目を当てた。


 今もどこかで、詩乃は星を眺めているだろうか。


 連絡先を交換しておけばよかった。そうすれば、あのとき言えなかったことを、今からでも伝えられたかもしれない。


 僕は星図を閉じ、望遠鏡を覗いた。視野の中で、星がかすかに揺らいでいた。


 もし、詩乃の言うように重力が僕たちを惹き合わせるのなら、離れても、いつかまた同じ軌道に戻れるだろうか。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


数ある作品のなかから本作を見つけ、ここまで読み進めてくださったことを、とても嬉しく思います。


星空や重力について調べるなかで知ったことを、ひとつの物語に織り込みました。登場人物たちの思いや、彼らが見上げた星空が、読んでくださった方の心に少しでも残れば幸いです。


星やブックマークなどで応援していただけると、今後の創作の励みになります。

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― 新着の感想 ―
重力は非常に弱い力だが、打ち消されること無く積み上がっていく。 二人の思いも何処かで重なりあって、形になるのかもしれませんね。
甘酸っぱい青春って感じのする作品でした! 星の関係と2人の距離感がリンクする辺りはちょっと泣きそうになりました。 重力は、また2人を巡り合わせてくれるのだろうか。 いや、巡り合わせるに違いない! な…
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