真実の愛に気付いた王太子に告げられた婚約破棄を受け入れた公爵令嬢の話
真実の愛に気付いた王太子に告げられた婚約破棄を受け入れた公爵令嬢のその後のその後のその後の話
初夏の爽やかな風が王宮の庭を渡る。楡の大木の根元に座り、ザーランド王国の若き王シャールは沈鬱な表情でため息をついた。シャールの傍らには真っ白な毛並みの大型犬が寝そべっている。今年で十五歳になる老犬は、ゆっくりと尻尾を左右に振りながら、王の憂鬱に静かに寄り添っていた。
「……私は、情けない男だな」
シャールはそっと愛犬の頭を撫でる。愛犬は耳だけを動かし、それ以上の反応はしなかった。ただ聴く、それだけでよいと知っているのだ。
王宮の一角にあるこの小さな庭は王族だけが立ち入ることを許される空間で、護衛すらも遠ざけられる、シャールにとって希少な居場所だった。ここにいるときだけは王という立場を離れ、一人の人間としてあることができる。幼いころからずっと一緒に過ごしてきた愛犬は、シャールの本音を知る唯一の存在だった。共に成長し、共に笑い――しかし愛犬だけが先に老いる。愛犬はもう昔のように庭を駆けまわって遊んではくれない。
「……バーゼル辺境伯が無断で兵を起こし、イシュガルに攻め入って逆撃を受け、三千の兵を損なった。本来ならば王都に伯を召喚し、問責せねばならん」
シャールは愛犬を撫でながら視線を空に向ける。王都から遥か西にバーゼル伯爵領があり、その向こうにイシュガルの国がある。イシュガルは西に外洋が広がり、中央部は肥沃な平野を有し、東は険峻な山岳に守られる豊かな土地だ。国土の大半を山岳が占めるザーランドにとって、西に進出して平野と交易航路を手に入れることは長年の悲願だった。
「イシュガルは今、賢王ハールが病に倒れ、王太子ロランが代行を務めている。だがロランは愚物と評判の男でな。政務は滞り、臣下は水面下で未来の権力の座を巡り暗闘を繰り広げているという」
シャールはふと、何かを思い出したように笑った。
「そうそう、ロランといえば、面白い噂を聞いた。猫好きが高じて犬好きの婚約者との婚約を破棄したとか。国家の重臣たる公爵家の令嬢をそんな理由で国外追放にしたと。よもや真実とは思えぬが、そのような噂が独り歩きするほどロランは有名だということだ」
愛犬は『くぁぁ』と大きな欠伸をする。シャールは愛犬に目を落とし、目を細めた。愛犬はもう一日の大半を寝て過ごしている。少しでも傍にいてやりたかった。
「イシュガルの政治的空白を狙って兵を起こした辺境伯を擁護する声は多い。時機を逃せば侵攻が遠のく。結果敗れたとはいえ、兵を起こしたこと自体を責めるべきではないと」
シャールは小さく息を吐く。ザーランドは貧しい国だ。ゆえに豊かなイシュガルに憧れ、妬む。肥沃な平野があるのはイシュガルの努力の結果か? 故郷が海に面していないがゆえに交易の富を得られぬのは我らの怠惰が因であろうか? 否、断じて否である。イシュガルは偶然に天から与えられた恩恵を、当然の権利のような顔で享受しているに過ぎぬ。ならばその恩恵は、我らが享受してもよいのではないか? イシュガルの民が偶然に得たそれを奪ったとて、我らに何の非があろうか。そう考える者たちが戦争を肯定する。
「バーゼル辺境伯は正式に援軍を要請してきた。私は、それを拒めなかった。私は五千の兵を伯に与えた。総勢一万の兵がイシュガル国境を越え――わずか一日で、全滅した」
報告によれば、『血塗れスカーレット』なる魔物が現れ、瞬く間に兵士たちを蹂躙したのだという。最初の侵攻の三千、そして二度目に一万の兵が、たった一匹の魔物に為す術なく敗れた。バーゼルは『生存者無し』の報告を寄越したが、シャールが放った密偵は別の報告を伝えている。
「……その『血塗れスカーレット』なる魔物は、圧倒的な力で兵を制圧し、武装を砕き、全員を正座させ、動物愛護の精神を叩き込んで去ったという。誰も死んではいないのだ。ただ、愛護精神を叩き込まれた兵士たちは戦争を拒否して逃散し、今は動物愛護団体に勤めているらしい。つまり、兵士としての彼らは『死んだ』と言っていい」
自虐的な笑みを浮かべ、シャールは小さくつぶやく。
「……誰も私に真実など告げてはくれぬ。たった一匹の魔物にザーランドの兵一万三千が容易く蹂躙されるなどあり得ぬ。されど、魔物が動物愛護の精神を説き、兵士に戦争を拒否させるほど洗脳するなどさらにあり得ぬ。結局私は何も分からぬまま流されているだけだ。王という名の抜け殻に過ぎぬのだ」
寝そべっていた愛犬が身を起こし、シャールの頬を舐める。シャールは表情を柔らかくして愛犬を抱きしめた。
「……ありがとう」
愛犬が小さく「ワン」と鳴く。体温が、鼓動が伝わり、シャールは目を瞑った。
「侵入者だ!」
鋭い警告が王宮内に響き、シャールはハッと顔を上げた。ズゥン、と地鳴りのような音と共に建物が細かく振動する。慌ただしい足音、悲鳴――しかし剣戟はない。何が起きている――? 身を屈め、いつでも立てるように身構えながら、シャールは愛犬を落ち着かせるように撫でた。
――ズガァァン!!
轟音と共に石壁が崩れ、激しい土煙が上がる。土煙の向こうには何者かの影があった。シャールの顔から血の気が引き、緊張に唾を飲む。石壁を崩した、すなわちそれは攻城兵器の類がすでに王宮内に持ち込まれたことを意味する。クーデター? あるいはイシュガルの逆侵攻? シャールの背筋に冷たい汗が伝う。
「……言ったはずだ。再び我が地を侵すことあらば、その代償は汝ら祖国の頂に及ぶと」
影の中で金色の瞳が妖しく光を放っている。シャールは目を見開き、かすれた声で言った。
「まさか……『血塗れスカーレット』――?」
土煙が晴れ、『魔物』がその姿を現す。鮮烈な赤のドレスに身を包み、冷たく激しい怒りを湛えた瞳で、一人の若い女が立っていた。しかしその身が放つすさまじいまでの重圧は人間のそれではありえない。総毛立ち、シャールの身体が知らず震えた。
「報いを受けてもらうぞ、ザーランドの王よ!」
叫びと共に女が地面を蹴り、赤き暴風となってシャールに迫る。全き破滅を前に、シャールの身体は自然と動いた。シャールは愛犬を背に庇い、両手をいっぱいに広げる。死が鉄拳となってシャールの顔面に伸び――
「……己が身を投げだして愛犬を庇うか」
そのつぶやきと共に、鉄拳はシャールの鼻先でぴたりと止まった。シャールの全身から汗が拭きだす。心臓が暴れ、呼吸は短く早くなる。赤いドレスの悪魔は拳を降ろし、金の瞳でシャールの目を覗き込んだ。
「どうして国境を越えた? 言え」
静かな威迫にシャールはギリリと奥歯を噛んで俯く。
「……ザーランドは国土のほとんどが山岳地帯の貧しい国だ。農耕に適した土地は少なく、わずかな耕作地にしがみつくように人々は暮らしている。冬を越えられぬ子が幾人もいる。孫が十歳になると崖から身を投げる老人がいる」
悪魔はじっとシャールの言葉に耳を傾けている。
「イシュガルが持つ肥沃な平野を、港町がもたらす交易の富を手に入れることができたら! 幼子の亡骸を抱く母の悲嘆を、崖に向かう父母の背を見送る絶望を、なくせるのだ!」
「だから、他人を殺すのか?」
「そうだ!」
悪魔の静かな問いを拒むようにシャールは叫んだ。
「人ならぬ身には分かるまい! あの惨めさ、あの口惜しさを! 貧しいと、ただそれだけの理由で命を諦めねばならぬあの絶望を!!」
シャールは激しい怒りを湛えて悪魔をにらみつける。悪魔の金の瞳がシャールを見る。その光に吸い込まれるように、シャールはぽつりとつぶやいた。
「……だが――」
悪魔は表情を変えず、透明にシャールの言葉の続きを待つ。奥底に封じていたシャールの願いが、祈りが、引きずり出される。
「――本当に、奪わねば幸福にはなれぬのか? 我らの故郷は民を幸福にできぬほど『弱い』のか? 故郷と自らを誇り、己の手で幸福を掴む道は本当にないのか! 私にはわからぬのだ! 私に分かるのは――」
シャールの右目から一粒の涙がこぼれ、頬を伝う。
「――『奪わねば幸福を得られぬ』という幻想を打ち砕く力が、私にないということだけだ!!」
目の前で死にゆく我が子を抱く母親に、十年後に収穫が増える麦の話をすることはできない。目の前の大切な誰かのために、迂遠な話をする余裕はない。そうして世界は即時効果を望み、誰かのための善意が他者への牙となるのだ。シャールは『悪意なき世界の絶望』を前に、ただ立ち尽くしていた。
「……どうやら私は、大きな勘違いをしていたようね」
悪魔の放つ重圧が急速に萎み、気配が人間のそれに変わる。緋色の髪の美しい娘はシャールに深く頭を下げた。
「数々の御無礼、心より謝罪いたします、国王陛下。誠意の代わりに、一つだけ――」
娘は顔を上げる。その瞳に鋭い光が掠めた。
「――陛下を蝕む毒を、退治て御覧に入れましょう」
――ヒュッ
風を裂いて飛来する矢がまっすぐにシャールへと向かう。娘は優雅な所作でその矢を掴むと、踊るように身体を半回転させ、正確に射撃地点へと投げ返した。「ぐっ」とうめき声が聞こえ、どさりと何かが倒れる音がする。瞬時に娘の姿が消え、そしてまた次の瞬間には、娘は黒づくめの装束に身を包んだ男を抱えてシャールの前に立っていた。娘は荷物を投げるように黒づくめの男を放る。黒づくめの男は上目遣いにシャールをにらんだ。
「陛下は手ぬるい! バーゼル閣下の奥方は一年前に病で亡くなった。イシュガルを手に入れていれば、奥様が亡くなられることはなかったのだ!!」
娘は身を屈め、黒づくめの男の首筋に手を当てる。舌を嚙む直前、男は気を失った。シャールは複雑な表情で男を見つめる。娘はシャールの後ろにいる老犬に目を向けた。
「何歳ですか?」
一瞬怪訝そうに眉を寄せ、ああ、と気付いて、シャールは答える。
「十五歳になる。もう老犬だ」
シャールの声に滲む感情を察したか、娘は美しく微笑んだ。
「大切にされているのね」
主を誇るように老犬が「ワン」と鳴く。娘は立ち上がり、王宮全体に響き渡る声で言った。
「聞けっ! ザーランドの民よ! シャール陛下こそこの国を未来へと導く日輪なり! この地を誇り、己を誇る未来は、シャール陛下の許に訪れよう! もし陛下を害せんと企てる者あらば――」
娘の金の瞳がひと際強い輝きを放つ。
「――このスカーレット・バゥムを敵に回すものと心得よ!!」
シャールが大きく目を見開く。スカーレットは優雅に一礼し、柔らかく微笑んだ。
「またお会いいたしましょう、シャール陛下。そのときにはシニア犬のケアの方法を完璧にマスターしてまいります」
真紅のドレスを翻し、スカーレットは颯爽と、破壊した石壁から去っていった。老犬が嬉しそうにパタパタと尻尾を振っている。シャールはふと気付いた。スカーレットが現れてから去るまで、彼の愛犬は一度も怯える様子を見せなかった。
「スカーレット・バゥム――」
そう名をつぶやき、シャールは娘の背から目を離せぬというように、彼女が消えた石壁の向こうを見つめていた。




