第9話 静かな夜
夕食は、驚くほど穏やかだった。
長いテーブルの中央に、淡い光を落とすシャンデリア。
宗三郎と圭祐はワインを揺らし、尚子は視線を伏せ、進は終始にこやかだった。
偽の孫――名乗った男は、控えめに振る舞っている。
「祖父は、紅茶がお好きだったと聞きました」
藤堂が答える。
「はい。毎晩、決まった時間に」
進が笑う。
「几帳面な方でしたから」
恭介は黙ってスープを口に運ぶ。
場違いな気分はまだ消えない。
(なんで俺がここにいる)
足元で、ヴァレリーが丸くなる。
男がふと、恭介に視線を向けた。
「探偵さんは、どうしてここに?」
「ああ……猫のついでだ」
素っ気ない答え。
男は小さく笑う。
「祖父は、用心深い人だったと聞いています」
進が軽く頷く。
「疑うことも、守ることの一つです」
その言葉が、妙に残った。
藤堂が紅茶を運ぶ。
白い湯気がゆらりと立ちのぼる。
尚子が微かに眉を上げる。
その様子に進はさっと尚子のスプーンとシュガースプーンを薄いベージュの布でぬぐった。
尚子がスプーンに手を伸ばす。
進は使用後のシュガースプーンを拭う。
「お砂糖は」
進が自然に言う。
「あなたは甘党でしたね」
男は少し照れたように笑う。
「ええ、二つほど」
宗三郎が横目で見る。
「もう覚えたのか」
「家族ですから」
進の声は、変わらず穏やかだ。
カップに、砂糖が落ちる音。
小さな、乾いた音。
恭介は何気なくそれを見た。
(甘そうだな)
ヴァレリーが顔を上げる。
男を見つめる。
まばたきひとつしない。
男は紅茶をひと口、飲んだ。
「……懐かしい味だ」
誰も答えない。
時計が、静かに時を刻む。
カチ、カチ、と。
宗三郎が席を立つ。
「今日はここまでにしよう」
それぞれが立ち上がる。
椅子が擦れる音。
男は最後にカップを傾け、飲み干した。
「おやすみなさい」
男が席を立とうとしたとき、進がふと思い出したように言った。
「そうだ。書斎に祖父の遺品がいくつか残っています。あなたが見たいなら、藤堂に鍵を開けさせますよ」
男は少し驚いたように目を瞬かせ、そして静かに頷いた。
「……少しだけ、見てもいいでしょうか」
「もちろんです。紅茶も持っていかれればいいですよ。ゆっくり飲みながら感傷に浸っては?」
「そうですね」
「いま、用意します」
進は柔らかく微笑んだ。
その笑みは、妙に滑らかだった。
保温されたポットから紅茶を入れる。
馥郁たる香りと温かな湯気。
進は砂糖壺のシュガースプーンを先ほどと同じように布で拭って添えた。
(あれは最早、癖になってるんだろうな)
神経質な尚子は手にするものを一度拭ってからでないと使わない。
拭うのは夫である進の役目となっているようだ。
(…婿って辛いな…)
屋敷は静まり返る。
廊下を歩く足音が、ひとつ。
書斎の扉が、静かに閉まる音。
そして――
わずかな、何かが落ちる音。
誰も気づかない。
気づいたのは、ただ一匹。
ヴァレリーだけだった。
闇の中で、その瞳が細く光る。
朝は、あまりにも普通に始まった。
庭の木々を揺らす風。
食堂に差し込む柔らかな光。
尚子が最初に違和感を覚えた。
「……あの方、まだ?」
偽の孫の席は空いたままだった。
宗三郎が眉をひそめる。
「寝坊か」
進が穏やかに笑う。
「長旅でしたからね」
藤堂が一礼する。
「お呼びしてまいります」
数分後。
屋敷に、短い悲鳴が響いた。
書斎の扉は半開きだった。
床に倒れた男。
横倒しの椅子。
割れたカップ。
紅茶の染みが、絨毯に暗く広がっている。
「……っ」
尚子が口元を押さえる。
宗三郎が低く言う。
「触るな」
進がすぐに屈み込む。
「脈は……」
その手が男の手首に触れる。
数秒の沈黙。
進は静かに顔を上げた。
「……もう、冷たい」
軽いざわめき。
尚子が足元から床に崩れる。
宗三郎が壁に手をつく。
「なぜだ……」
恭介は入口に立ったまま動かない。
視線は、床の紅茶に落ちている。
ヴァレリーが、静かに近づいた。
割れたカップのそば。
ヴァレリーから距離をおくように進が立ち上がる。
「ここで、紅茶を飲んで、亡き兄を偲んでいたというのに…」
尚子が痛ましいという声音でいう。
「……毒かもしれません」
ぽつりと進が呟く。
全員が顔を上げる。
その言葉は、あまりにも早かった。
宗三郎が言う。
「なぜ毒だと」
「急死です。しかも外傷がありません…まあ、可能性としてですが」
進は冷静だ。
冷静すぎる。
恭介の胸に、小さな引っかかりが生まれる。
(……早いな)
まだ医者も呼んでいない。
原因も分からない。
病死の可能性だってある。
なのに“毒”。
藤堂が静かに告げる。
「警察を」
進が頷く。
「ええ。すぐに」
その間にも、進の視線は紅茶のカップへ向いている。
一瞬だけ。
ほんの一瞬。
恭介はそれを見逃さなかった。
(……確認してる?)
ヴァレリーが、男の指先の匂いを嗅ぐ。
そして。
低く、かすかに唸った。
恭介だけに聞こえるほどの、小さな音。
「……おい」
誰も気づかない。
圭祐が恭介を見る。
「探偵さん」
愉快気に声をかけた。
「こういうときこそ、あんたの出番では?」
巻き込まれる。
その瞬間だった。
恭介は顔をしかめる。
「俺は警察じゃない」
「だが、現場にいるじゃないか」
進の視線が、わずかに強くなる。
逃がさない視線。
「無関係とは言えないだろ」
宗三郎が言う。
「頼む」
尚子も涙目で恭介を見る。
「殺人現場に探偵…出来過ぎたミステリーみたいだな」
「圭祐!」
「不謹慎よ」
「はいはい」
圭祐が肩をすくめた。
逃げ道が、消える。
恭介は深く息を吐く。
(……面倒だ)
足元で、ヴァレリーが見上げる。
その黒い瞳は
(諦めろ)
とでもいっているようだ。
もう後戻りはできない。
恭介は一歩、室内へ踏み込んだ。
その瞬間。
進の口元が、ほんのわずかに緩んだ。
誰も気づかない。
ヴァレリーだけが、その目を見ていた。
室内は、妙に静かだった。
圭祐が言う。
「全員、同じ紅茶を飲んだんですよね?」
藤堂が頷く。
「同じポットで淹れました。順にお配りしましたが……」
「砂糖も共通ですわ」
尚子が付け加える。
「追加で淹れた紅茶も同じものだよ」
進が言う。
恭介は腕を組んだ。
(……なら、なぜ一人だけ?)
視線を落とす。
カップ。
受け皿。
スプーン。
足元で、ヴァレリーが椅子の脚の影からじっと見上げている。
その黒い瞳は、何かを待っているようだった。
「紅茶そのものに毒が入っていたなら、全員倒れる」
恭介が静かに言う。
「でも、そうはなっていない」
圭祐が顔をしかめる。
「じゃあ、誰かが途中で入れた?」
「それも不自然だ」
恭介は首を振る。
「誰も席を立っていない」
沈黙。
雨音だけが窓を叩く。
恭介はゆっくり息を吐いた。
「……最初から、仕込まれていたと考えるほうが自然だ」
「最初から?」
「目に見えない形で。乾いていれば分からないものもある」
進の視線が、ほんのわずかに動いた。
その動きは、恭介の言葉を“否定したい”ようにも見えた。
「想像力が豊かですね」
穏やかな声。
だが、ヴァレリーの尾が、ゆっくりと止まる。
恭介はそれ以上は言わなかった。
まだ確信はない。
だが、違和感は確かにそこにある。
ヴァレリーが、被害者の椅子の足元を嗅ぐ。
そして、床の一点――
スプーンが落ちれば転がりそうな位置 で止まった。
恭介は目を細める。
(……何かあるのか?)
だが証拠はない。
理屈もまだない。
あるのは――
進の第一声の速さ。
そして、さっきの一瞬の後退。
恭介は小さく息を吐く。
(考えすぎか)
まだ、何もつながらない。
だが。
小さなズレは、確実にそこにあった。
雨は、まだやまない。




