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黒猫ヴァレリーの事件簿  作者: 高梨 梛
第1章 雨の日の遺言
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第7話 黒猫の導き

間違って全話本日投稿してしまいました(泣)そのため、第5話が前後しています。すみません。

「やれやれ、実にお前らしい」

ご迷惑をおかけします。

タクシーを降りた瞬間、恭介は言葉を失った。

冷たい空気が肌に触れ、雨上がりの匂いが鼻をくすぐる。

視界の先に、異様な存在感を放つ“それ”があった。

門がある。

いや、門というより、塀だ。

高く、重く、威圧的な鉄の門扉。

黒光りする鉄は、雨粒を弾きながら鈍い光を返している。

その向こうには、深い緑と濡れた石畳が静かに続いていた。


「……ここか? 本当に?」


声が震えたのは、寒さのせいだけではない。

黒猫は当然のように門の前に座った。

濡れた尾を一度だけ揺らし、恭介を見上げる。


「入れ」


「無理だろ」


言ったそばから、門が静かに開いた。

重厚な音。

鉄が擦れる低い響きが、胸の奥まで沈んでくる。

まるで、恭介が来るのを知っていたかのように。


「は?」


石畳の奥から、足音がする。

規則正しく、落ち着いた足取り。

濡れた石を踏む音が、静かな庭に吸い込まれていく。

現れたのは、背の高い男だった。

細い目。

柔らかな笑み。

整えられたグレーヘア。

年齢は五十代後半だろうか。

温厚そうな佇まいだが、その立ち姿は隙がない。

一歩一歩が静かで、無駄がなく、長年の習慣で磨かれた所作だった。

男は門前まで来ると、恭介に向かって深く頭を下げた。


「お帰りなさいませ」


「……は?」


「長らくお待ちしておりました」


声は穏やかだが、揺るがない。


(……長らく? 誰を? 俺じゃないよな? いや、待てよ……いやいや、そんなバカな)


恭介はヴァレリーを見る。


(お猫様か、こいつ……)


ヴァレリーは何事もない顔をしている。

むしろ、当然の光景を眺めているような落ち着きだ。


「いや、待って。人違いです」


男は目を細めたまま、優しく言う。


「いえ。お間違いございません」


「俺、こんな家知らないし」


「無理もありません」


その言い方に、妙な確信があった。

まるで“知っているのは自分だけではない”と言わんばかりに。


「ですが、ここはあなたさまのお家でございます」


「だから違うって!話を聞けよ!」


ヴァレリーが、静かに口を挟む。


「騒ぐな。見苦しい」


「お前のせいだろうが!」


男はヴァレリーに向かって軽く会釈した。


「ヴァレリー様、ご苦労様でございました」


「当然だ」


(ヴァレリー“様”?)


恭介の頭が追いつかない。

男は改めて恭介を見る。

その視線には、観察と、どこか懐かしむ色が混ざっていた。


「改めまして。私、一条寺家の家令を務めております、藤堂と申します」


恭介の胸がざわつく。

一条寺。

どこかで聞いた名だ。

だが、思い出せない。

胸の奥が、なぜかひどく落ち着かない。


「あなた様のお祖父様、一条寺実淳様は、先日ご逝去なさいました」


空気が変わる。

黒猫の尾が、ゆるく揺れた。

風が止まり、庭の木々が静まり返る。


「……祖父?」


恭介は言葉を繰り返す。

自分の声が、自分のものではないように聞こえた。

藤堂は静かにうなずいた。


「はい、あなた様は、実淳様の直系のお孫様でいらっしゃいます」

音が消えた。

風も、鳥の声も、何もかも。

恭介の心臓だけが、やけに大きく脈打っている。


「……は?」


やっと出たのは、それだけだった。

藤堂は柔らかく微笑む。


「お帰りなさいませ、恭介様」


ヴァレリーが言う。


「だから言っただろう。家だ」


恭介は門の奥を見る。

広い庭。

濡れた石畳。

重厚な屋敷。

見覚えのない景色。

それなのに、胸の奥がかすかに疼く。

(……なんだ、この感じ……俺を騙そうとしているのか……)


「……冗談、だよな?」


誰も笑わない。

藤堂は一歩退き、道を開ける。


「どうぞ、お入りください」


ヴァレリーが先に歩き出す。

振り返りもせず、まっすぐ屋敷へ向かう。

恭介は立ち尽くす。

逃げることは、たぶんできる。

タクシーもまだ近くにいる。

走れば間に合う。

だが——

ヴァレリーがふいに振り返った。


「一つ言っておく」


「……なんだよ」


「私が喋ることを知っているのは、お前と藤堂だけだ。他言は無用だ、いいな」


「は? いやいや、無用って……そもそも猫が喋る時点で無理だろ!」


藤堂が静かに恭介へ向き直る。


「恭介様。ヴァレリー様がおしゃべりになられることは、亡き旦那様と私以外におりません。くれぐれも他の方々にお話しなさいませんよう、お願い申し上げます」


「いや、だから俺は……」


ヴァレリーが石畳を軽く踏み、藤堂に目を向けた。


「まずは羽虫の排除からだな」


藤堂は一瞬だけ目を伏せ、深くうなずいた。


「御意」


——その瞬間だけ、藤堂の目の奥が冷たく沈んだ。


雨粒よりも鋭く、硬質な光が一閃する。


だが次の瞬間には、いつもの柔らかな笑みに戻っている。


恭介は気づかない。


だが、ヴァレリーの尾が、満足気にわずかに揺れた。


(羽虫? 排除? え、何の話だよ……)


恭介の混乱をよそに、ヴァレリーは続ける。


「藤堂、こいつは昨日から何も食べていない。食事を。ああ、そうだ、こいつにも何か出してやってくれ」


「い、いや、俺は……!」


「遠慮するな」


藤堂は恭介に向かって深く頭を下げた。


「どうぞ屋敷へお入りください。温かいものをご用意いたします」


恭介は完全に置いていかれていた。


(……なんだこの家……)


小さく呟き、石畳へ足を踏み入れた。

門が静かに閉じる。

重い音が、外界を遮断する。

その瞬間、空気が変わった。

黒猫ヴァレリーの声が風に乗る。


「ようこそ」


その声は、どこか満足げだった。


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