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黒猫ヴァレリーの事件簿  作者: 高梨 梛
第1章 雨の日の遺言
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第4話 持ち去り

屋敷は、雨上がりの湿り気をまとっていた。

廊下の絨毯には、外気を吸い込んだような冷たさが残り、

磨かれた木の床には、薄い光がぼんやりと反射している。

窓の外では、薔薇が重たげに首を垂れていた。

雨粒を含んだ花弁は、まるで疲れたように沈黙している。

庭の土はまだ濡れており、湿った土の匂いがわずかに屋内へと入り込んでいた。

サロンには紅茶の香りと、その香りに混じるように、微かな緊張が漂っていた。


「当主亡きあと、屋敷も整理が必要だとは思わないか」


宗三郎が穏やかな声で言った。

その太い指先は、カップの縁をゆっくりとなぞっている。

穏やかな声音とは裏腹に、どこか落ち着きのない仕草だった。


「“整理”とは、何を指しているのかしら?」


妹が柔らかく問い返す。

声は穏やかだが、目は笑っていない。

膝の上に置いたハンカチを、無意識に折り直していた。


「不要なものだな。趣味の悪い調度や……場違いな生き物だな」


宗三郎の視線が、暖炉の前に落ちる。

毛づくろいをしていたヴァレリーは、ゆっくりと顔を上げた。

金色の瞳が、宗三郎の目を静かに捉える。

そのとき。


「……場違い、か」


圭祐がぽつりと呟いた。

足を組み替え、窓の外へ視線を投げる。

その横顔には、退屈と皮肉が入り混じっていた。

宗三郎の眉がわずかに動く。


「何か?」


「いえ。誰にとって、かと思っただけだよ、兄さん」


若さゆえの無遠慮か、あるいは単なる率直さか。

その言葉は、サロンの空気を一瞬だけ凍らせた。

暖炉の前でヴァレリーは目を細めた。


(ふっ、欲望の展示室だろう。ここは)


誰にも聞こえない思考。

人間は、自分の匂いには鈍感だ。

欲望も、焦りも、嫉妬も、すべてがこの部屋に満ちているのに。

紅茶のスプーンが、かすかに触れ合う。

その音が、妙に大きく響いた。

サロンでは、いつも通りの会話が再開されていた。

宗三郎は資産の話を続け、

妹婿は曖昧に相槌を打ち、

圭祐は窓の外を見ている。

妹はカップを持ち直し、唇に運ぶふりをして目線だけを動かした。






そのとき——

ヴァレリーの耳が、わずかに動いた。

廊下の奥で、微かな物音。

絨毯を踏む柔らかな音が、規則正しく近づいてくる。

迷いのない歩幅。

呼吸の気配すら感じさせない静かな足取り。

影が、扉の向こうに差す。

ヴァレリーはゆっくりと顔を向けた。


(……早いな)


足音が止まる。

次の瞬間、抱き上げられた。

腕は強くない。

だが躊躇もない。

その手つきには、ためらいの欠片もなかった。

その腕が動いたとき、

金属が絨毯に触れる、かすかな音がした。


(……今のは?)


ヴァレリーは視線だけを落とす。

絨毯の上に、小さな銀色のものが転がっていた。

宗三郎のカフスボタン。


(ほう……)


だが、抱き上げた人物からは宗三郎の匂いがしない。

甘い香りと、微かな整髪料の匂い。

宗三郎とは違う。


(なるほど。濡れ衣か。ずいぶんと手が込んでいることだ)


近づく胸の鼓動は、妙に落ち着いていた。

ヴァレリーは暴れない。

ただ、相手の顔を見上げる。


(急ぎすぎだ。まだ幕は上がったばかりだというのに)


サロンでは、まだ紅茶の香りがしている。

笑い声が混じり、誰かが椅子を引く音がした。

扉が閉まる音は、驚くほど静かだった。

まるで屋敷そのものが、何も見なかったふりをしているかのように。

廊下の空気は冷たく、

その冷たさが、ゆっくりと屋敷全体へ広がっていく。

屋敷は、何事もなかったかのように沈黙していた。

ただ一つ、

——ヴァレリーの姿だけが、そこになかった。



私のミスで、エピソード14が5話となっています。すみません、エピソード14へ飛んでくださいますようお願いいたします。

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