第3話 雨の日の探偵
そのころ、遠く離れた街の片隅で。
千束恭介は、いつも通りの冴えない朝を迎えていた。
自分の人生が、黒猫の足音とともに静かに変わり始めていることなど、まだ知る由もなく。
その日は細かい雨が降っていた。
窓ガラスを叩く雨粒は、まるで「今日も仕事はないぞ」と念押ししてくるかのようだ。
長いことカットをしていない髪は襟足まで延び、毛先も好き勝手な方向に跳ねている。ここしばらく、剃るのが面倒でそのまましている無精ひげが冴えなさを強調していた。
恭介は事務所の古びたソファに沈み込み、冷めきったコーヒーを見下ろした。
黒い液体は、もはやコーヒーというより“何かの影”のようだった。
机の上には書類が一枚もない。
電話も鳴らない。
時計の秒針だけが、やる気のない事務所で唯一働いている。
「……平和なのは、いいことだ」
自分に言い聞かせるように呟く。
その直後、腹の虫が盛大に鳴いた。
「……平和と空腹は両立しないんだよな」
財布を開く。
千円札が三枚と、小銭が少し。
見慣れた光景だ。
「昼はカップ麺だな。……いや、夜もか?」
結論はすぐに出た。
そのときだった。
――にゃあ。
長身の恭介の体がビクッと跳ねた。
猫だ。
猫の声だ。
間違いない。
ゆっくりと顔を上げると、窓の向こう、濡れた路地の隅に小さな影が見えた。
黒い猫だ。
雨を避けるように、軒下でちんまりと座っている。
耳がしょんぼりしていて、妙に哀愁がある。
恭介は反射的に視線を逸らした。
「……気のせいだ。あれは猫じゃない。黒い……影だ」
自分に言い聞かせる。
――にゃあ。
さっきより近い。
「見るなよ。絶対こっちを見るなよ…」
思わず口に出していた。
猫は答えない。
見るなという願いも虚しく、こちらをじっと見ている。
その金色の目が、どうにも落ち着かない。
恭介は猫が苦手だった。
理由は曖昧だが、あの“見透かしてくる感じ”がどうにもダメだ。
窓の外の猫は動かない。
まるで「ここで雨宿りするのが当然だろう」と言わんばかりに座っている。
恭介は立ち上がり、カーテンをシャッと閉めた。
「よし。これで安全だ」
見えなければ、いないのと同じ。
完璧な理論だ。
……五秒後、気になってカーテンを少し開けた。
猫はまだいた。
さっきと同じ姿勢で、じっとこちらを見ている。
「なんで見てるんだよ……監視か?」
猫は何も答えない。
ただ、尻尾がちょこんと揺れた。
恭介はため息をつき、再びカーテンを閉めた。
「関係ない。俺には関係ない」
その通りだった。
彼はただの探偵で、猫とは何の関係もない。
――そのはずだった。
机の上の電話は、その日も一度も鳴らなかった。
そして翌日、
彼は一匹の黒猫を拾うことになる。
それが、自分の人生を静かに変えていくとも知らずに。




