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黒猫ヴァレリーの事件簿  作者: 高梨 梛
第3章 落ち葉の足音
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プロローグ ヴァレリーの受難の日

レンガ色の石造りの重厚な外観。

スレート葺きの屋根。

一条寺家の屋敷は、英国貴族の邸宅を模して建てられた二階建ての洋館である。

その正面には贅沢に設けられたテラス式庭園があった。

庭園には左右対称に多種多様なバラが植えられている。

秋のバラは、春のそれより少し小ぶりだ。

だが、鮮やかな色彩と濃厚な香りはむしろ深みを増している。


庭の木々は、芝生の上に静かに葉を落としていた。

落ち葉は風にあおられ、

カサカサと乾いた音を立てる。


その音は、どこか人の足音にも似ていた。


爽やかな朝の陽ざしの中、

一条寺家の家令、藤堂は使用人たちを前に連絡事項を伝えていた。

普段は温厚な藤堂だが、今朝は張り詰めた空気を纏っている。


「本日、十一時頃、岸様がいらっしゃいます」


その言葉に、使用人たちは"はっ"と背筋を伸ばした。

藤堂は静かに続ける。


「昨年のような失態は許されません」


「「はい」」


「くれぐれも油断なさらぬよう。では、それぞれ持ち場へ」


使用人たちは三々五々、その場を後にした。

その背には、みな緊張感があった。

静けさが戻る。


(あの方にもお伝えしておいた方がよろしいでしょうね)


藤堂の細い瞳に、一瞬だけ鋭い光が宿った。

彼は絨毯の敷かれた廊下を音もなく歩き、

やがて重厚な木の扉の前で足を止めた。


トントン。


「失礼いたします」




お気に入りのクッションが置かれた出窓で、

一匹の黒猫が丸くなって眠っていた。

名はヴァレリー。

手足の先と首元から腹にかけて白い毛が入り、

鼻の横には三日月のような白い模様がある。

黒い鍵しっぽ。

柔らかな秋の陽射しを受け、黒い毛並みが艶やかに輝いていた。

眠っていたヴァレリーの耳が、ぴくりと動く。


「失礼いたします」


「藤堂か」


黒猫は片目だけ開けた。

藤堂は一礼する。


「ヴァレリー様。本日はワクチン接種のご予定が入っております」


「聞いていない」


ヴァレリーは即座に起き上がった。

そして次の瞬間。

猫特有の身軽さで藤堂の足元をすり抜け、部屋を飛び出した。


「ヴァレリー様!」


藤堂の声が廊下に響く。

だがヴァレリーは振り返らない。

一目散に向かったのは、ある部屋だった。


「早くドアを開けろ」


「なんだよ、一体」


ドアを開けたのは、千束恭介。

三十歳手前の長身の男だ。

素材は悪くないのだが、身なりに頓着しないため、どうにも冴えない。

ヴァレリーは部屋に飛び込んだ。


「恭介、行くぞ」


「行くってどこに?」


「お前の事務所だ」


恭介は首をかしげる。


「なら車で行くか」


「電車だ」


即座に否定。

恭介は目を丸くした。


「え? 人ごみは嫌だとか言ってなかったか?」


「忘れろ」


「なに慌ててるんだ?」


「いいから、早くしろ!」


恭介は肩をすくめ、棚からキャリーバッグを取り出した。


「なんだ、それは」


「公共交通機関に乗るんだ。これに入れよ」


ヴァレリーはしばらくバッグを睨んだ。


「……仕方ない」


しぶしぶ中に入る。

恭介が蓋を閉めた。


「早く行け」


「はいはい……藤堂さん、捕まえましたよ」


ゆったりとした足取りで藤堂が現れる。


「ご苦労様でございます」


キャリーバッグの中でヴァレリーが低く唸った。


「恭介、貴様」


恭介はにやりと笑う。


「ワクチン、受けような。相棒」


キャリーバッグ越しに覗き込む。


「裏切り者め」


ヴァレリーが恭介を睨めった。

窓の外は落ち葉がひらり、ひらりと舞っている。


カサカサ……


カサカサ……


積もった落ち葉を踏む音。

その音を聞いた瞬間、

キャリーバッグの中でヴァレリーの耳がぴくりと動いた。




キャリーバッグの中ではヴァレリーが不機嫌そうに尻尾を揺らしていた。


「出せ」


恭介がバッグを軽く叩く。


「ダメだ。逃げるだろ」


「逃げる」


「ほらな」


恭介は苦笑した。

二人は玄関の横の応接室にいた。

ワクチン接種のために獣医が来る予定なのだ。

ヴァレリーは鼻を鳴らした。


「くだらない」


「健康管理だ」


「余計なお世話だ」


恭介はソファに腰を下ろした。


「大体、なんで逃げたんだよ」


ヴァレリーは答えない。

代わりに耳を動かした。


ぴくり。


窓ガラス越しに、

屋敷へ近づいてくる車のエンジン音が聞こえた。

低く重いエンジン音が、落ち葉を震わせた。


岸の車だろう。


恭介は気づかない。

エンジンの音以外に外から、かすかな音が聞こえた。


カサカサ……


落ち葉の音。


しかしヴァレリーの耳はさらに動く。


カサ……

カサ……


落ち葉が風に揺れているほんのわずかな音。

その音は、風の音ではなかった。

ヴァレリーの目が細くなった。


第3章、本日から開始させていただきます。楽しんでいただければ、幸いです。

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