第2話 遺言
その日は細かい雨が降っていた。
十九世紀の英国庭園を模して造られた一条寺家の庭――旧古河庭園を範とした左右対称の庭園には、この季節を誇る数種類の薔薇が、静かに咲き揃っている。
白。淡紅。深紅。
雨に濡れた花弁は光を失い、代わりにしっとりとした重みを帯びていた。
細かな雨は煙のように庭を包み、輪郭を曖昧にしている。
その曖昧な景色の奥で、薔薇の茂みがわずかに揺れた。風のせいか、それとも……
まるで、この屋敷からひとつの時代が静かに消えたことを、世界そのものが受け止めているかのようだった。
濡れた薔薇はうつむき、誰に見せるでもなく、ただそこに在る。
それは、主を失ったこの家の、今の姿にどこか似ていた。
屋敷の奥深く、普段は日当たりがよく温かな空気に満たされているはずの応接室も、今日はどこか冷え冷えとしていた。
天井には繊細なガラス細工を施したシャンデリアが下がり、豪奢でありながら節度を感じさせる装飾と、時を重ねたアンティーク家具が品よく配置されている。
布張りのソファーとアームチェアは、穏やかな会話のために対面するよう整えられていた。
しかし今、その場にあるのは沈黙だけだった。
背もたれの高い大きなアームチェアに座っているのは、一条寺宗三郎。
実淳の弟である。
恰幅のよい身体は上質な服に包まれているものの、脂ぎった頬と緩んだ口元が、その人物の内面を隠しきれてはいない。 年齢を重ねてもなお女遊びをやめぬ男特有の、弛緩した気配が滲んでいた。
その姿は―― いついかなる時も背筋を真っ直ぐに伸ばし、静かな威厳を崩さなかった兄、一条寺実淳とは、あまりにも対照的だった。
宗三郎の横のソファーには、妹の村雨尚子が夫の進とともに座っていた。
尚子は細面で、神経質でプライドの高さを隠そうともしない顔立ちをしている。しきりとハンカチで指先を拭っていた。
その隣で進は、背を丸め、居心地悪そうに手を膝の上に置いていた。
尚子は進に向かって、小声で何かを責めるように囁いている。
末弟の圭祐は、喪服をだらしなく着崩し、退屈そうに足を組んでいた。先ほどからスマホをいじり、顔をあげない。
宗三郎の椅子の肘掛けには、年若い愛人のリサが腰掛けている。 喪の場には不似合いな露出の高い赤い服を着て、片足のヒールをぶらぶらと揺らしていた。
尚子が眉をひそめた。
(下品な)
「なにか?」
リサが嘲るように言った。
「兄さん、その小娘は喪中に不謹慎ではなくて?」
「お、おい、尚子……」
進が小さく言った。
「リサは部外者だ。喪服を着なくても問題はないだろう」
「ですって、おばさん」
「なっ――」
尚子が言い返そうとした時、圭祐が口を挟んだ。
「まあまあ。部外者よりも重要なのは、遺産の方じゃないか?」
その一言で、空気が変わった。
尚子は口を閉ざした。
宗三郎がゆっくりと椅子に身を沈める。
「実淳兄さんの息子は、確か家を出て行ったままだったな」
「そうよ。もう何十年も前の話よ」
尚子が言った。
「そしてその息子も、もう亡くなっていると聞いているわ」
宗三郎が頷く。
「ならば、遺産は我々で分けるのが順当だろう」
圭祐が笑った。
「僕はどれだけ貰えるのかだけが気になるね」
進は何も言わなかった。
ただ、静かに唾を飲み込んだ。
その時、扉が開いた。
家令が弁護士を伴って入ってきた。
白髪交じりの小柄な男は一同を見回し、一礼した。
「弁護士の近藤と申します」
彼は使い込まれた鞄から一通の封書を取り出した。
「一条寺実淳様は、生前、ご自身の財産について遺言書を遺されております」
思いがけない事実にざわつく。
「遺言だと…?」
封蝋が切られる音だけが響いた。
「私の全財産は、これを二名の者に相続させる」
宗三郎の口元がわずかに緩む。
尚子の目が光る。
「第一の相続人――亡き長男の子、千束恭介」
沈黙が落ちた。
「長男の子って…孫……?」
尚子が呟いた。
宗三郎が顔をしかめる。
「どこにいるんだ?」
「所在は不明です」
近藤は続けた。
「また、法的にも代襲相続とみなされ、正当な相続権を有します」
不穏な空気が流れる。
「じゃ、じゃあもう一人相続人はだれなんだよ?」
圭祐が焦燥の滲んだ声をあげた。
近藤は次の一文を読む。
「第二の相続人――ヴァレリー」
誰も理解できなかった。
「なお、相続人ヴァレリーは、私の意思を理解している」
宗三郎が顔を上げた。
「……誰だ、それは」
「あの兄さんに隠し子がいたのか?」
「意思を理解ってどういうことよ」
近藤は答えた。
「ヴァレリーは実淳様の飼い猫です」
完全な沈黙。
尚子の顔が歪んだ。
「猫……?」
「なお、ヴァレリーが死亡した場合、その相続分はすべて千束恭介様に移譲されます」
宗三郎の目が細くなった。
尚子は何かを計算していた。
圭祐は、静かに笑った。
進の指先が、わずかに震えていた。
分厚いカーテンの向こうで。
ヴァレリーはすべてを聞いていた。
(金と欲か…)
黄金の瞳が静かに細められる。
(本当に愚かなものだ)
だが、それでいい。
それが人間だ。
家令は、その場で微動だにしなかった。
だがその視線が、ほんの一瞬だけカーテンへと向いた。
ヴァレリーと、目が合った。
わずかに――頷く。
約束は守られる。
すべては、あの方の意志のままに。
そして黒猫は、静かに立ち上がった。
雨の匂いが、遠くからかすかに漂ってくる。




