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黒猫ヴァレリーの事件簿  作者: 高梨 梛
第2章 千束恭介の受難〜花火の下の真相〜
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第4話 履物店の奥

履物店の奥には、小さな作業場がある。

古い木の机。

壁には道具が整然と並び、ゴムの匂いがほんのり漂っていた。

相沢 恒一は、靴底を指で押した。


「……剥がれてるな」


客は近所の常連だ。

新品を買うほどではないが、捨てるには惜しい。

相沢は小さく笑った。


「大丈夫ですよ」


ヒートガンのスイッチを入れる。

ブゥン、と低い音。

温風が靴底を温めていくと接着剤が柔らかくなった。

相沢はゴムを押し直した。

数秒。

ぴたりと貼り付く。


「ほら」


靴を差し出す。


「直りました」


客が目を丸くする。


「おお……」


「接着ってね」


相沢はヒートガンを机に置いた。


「熱で柔らかくなるんですよ」


少し誇らしげに言う。


「だから」


靴底を指で叩いた。


「やり直せる」


客が笑う。

相沢も笑った。

だがその笑みは、ほんの一瞬だけ曇った。

客が帰ると、店は静かになった。

相沢は帳簿を開いた。

売上。

自然とため息が零れた。

数字は、厳しい。

コロナ以降、客足は戻らない。

そのとき。

スマートフォンが震えた。

メッセージが映し出された。

娘からだった。


「学費の振込ありがとう!」


「バイトも頑張るね!」


相沢は少し笑った。


「気にするなよ」


小さく呟く。

だが、視線は帳簿に落ちる。

店の戸が開き、声がした。


「こんにちはー」


恭介だった。


「おや」


相沢は顔を上げる。


「千束さん」


その足元を黒猫が通り過ぎる。

ヴァレリーは作業場を見回し、ヒートガンを見た。

音もなく歩き、ヒートガンの前で立ち止まった。

温風の残り香。

溶けた接着剤の匂い。

ゴムが柔らかくなる気配。

ヴァレリーは鼻先を近づけ、ひく、と一度だけ匂いを吸い込んだ。


(……これは“変わる匂い”)


そんなふうに言いたげに、金色の瞳が細められる。


「靴の修理ですか」


恭介が言う。


「ええ」


相沢はヒートガンを持ち上げた。


「熱で接着を直すんです」


恭介が感心する。


「へえ」


「便利ですよ」


相沢は笑った。


「一度貼ったものでも――」


一拍。

ヒートガンを軽く振る。


「熱をかければ」


靴底を押す。


「やり直せる」


ヴァレリーの尻尾がゆっくり揺れた。

その揺れは、


“覚えたぞ”


と言っているようだった。

相沢がヒートガンを片付けながら、胸の奥で思う。


――熱は、嘘をやり直すこともできる。


その思いの影を、ヴァレリーだけが確かに嗅ぎ取っていた。

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