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黒猫ヴァレリーの事件簿  作者: 高梨 梛
第2章 千束恭介の受難~花火の下の真相~
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第2話 消えて戻る金

祭り前日の昼。

商店街の会館は、夏の熱気に包まれていた。

古い建物の天井に取り付けられた扇風機が、ぎい、と頼りなく回っている。

窓の外では蝉が鳴き続け、遠くからは祭りの太鼓の練習音が響いてきた。

役員たちが長机を囲み、その中央には帳簿と金庫が置かれている。

恭介は壁際で腕を組み、場の空気を静かに見守っていた。


「千束くんも見ておいてくれ」


組合長が言う。


「若い目も大事だからな」


「はあ……」


探偵として呼ばれたわけではない。

ただの立ち会いだ。

だが、こういう場に巻き込まれるのは、もう慣れつつあった。

相沢 恒一が帳簿を開く。

白い作務衣の袖口から覗く腕には、汗が光っていた。


「今月の組合費ですが――」


相沢は数字を指でなぞりながら、丁寧に読み上げる。


「ここですね」


金庫の鍵が回され、蓋が開く。

中から封をした封筒が取り出された

開封され、札束が取り出され、机の上に並べられた。

役員の一人が数え始める。


「一万……二万……三万……」

蝉の声が窓から流れ込み、

その単調な音が、妙に緊張を煽った。


「……あれ?」


手が止まった。


「どうした」


組合長が眉をひそめる。


「五万……足りません」


「足りない?」


組合長の声が低くなる。

相沢が帳簿を覗き込み、目を細めた。


「そんなはずは……」


もう一度数える。

結果は同じだった。

ざわつきが広がる。


「盗まれたのか?」


「金庫は鍵付きだぞ」


「誰が触った?」


組合長が恭介を見る。


「千束くん、どう思う?」


突然振られ、恭介は肩をすくめた。


「さあ……」


探偵だが、いきなり回答を求められても困る。

ただ――


(少し早いな)


事件になるには。

そのとき。

相沢が小さく息をついた。


「ああ……」


そして、笑った。


「すみません」


帳簿を指差す。


「ああ……すみません。僕の計算がずれていたようです」


役員たちが顔を見合わせる。


「ミス?」


「ここです」


相沢は別のページを開き、


「ここ、先月の繰越の扱いが……ちょっとややこしくて」


と説明した。

計算をやり直す。

確かに数字は合った。

組合長が頭を掻く。


「なんだ……驚かせるなよ」


笑いが起きた。

相沢は苦笑しながら頭を下げる。


「会計がずさんだと思われないように、気をつけます」


場の空気が緩み、

恭介も頷いた。


「まあ、合うならいいんじゃないですか」


しかし――

恭介は気づいていた。

相沢が帳簿を閉じるとき、

その指先がわずかに震えていたことに。


(……気のせいか?)


相沢はすぐに笑顔を取り戻し、


「千束さん、暑いでしょう。どうぞ」と

冷たい麦茶を差し出してきた。

恭介は受け取りながら、

その優しさにどこか引っかかりを覚えた。

机の下。

黒猫が座っていた。

ヴァレリー。

金色の瞳が、金庫を見ている。

札束。

帳簿。

相沢。

ゆっくり瞬きをする。

恭介は気づかない。

ただ、蝉の声だけが、妙に耳に残った。



――翌日。

この“違和感”が、形を変えて戻ってくることを、まだ誰も知らなかった。


昼下がりの商店街は、夏の熱気に包まれていた。

アスファルトから立ち上る陽炎が、遠くの景色をゆらゆらと歪ませている。

祭りの準備で忙しい店主たちの声が飛び交い、どこかの店先では氷を砕く音が響いていた。

恭介は、商店街組合の事務所に呼び出されていた。

古い木造の建物で、扇風機がぎい、と頼りなく回っている。

湿った風が部屋を巡り、紙の匂いと汗の匂いが混ざった。


「……で、どういうことですか?」


恭介が尋ねると、組合長が額の汗を拭いながら帳簿を指さした。


「昨日の時点で、組合費が三万円足りなかったんだよ。みんなで確認して、確かに“消えていた”」


恭介は眉をひそめた。


「それが……戻った?」


組合長は重々しく頷いた。


「今朝、帳簿を見たら、ちゃんとあったんだ。誰かが戻したのかと思ったが、誰も心当たりがないと言う」


窓の外で蝉が一斉に鳴き始めた。

その音が、妙に耳に刺さる。


「記帳ミス……じゃないんですか?」


恭介が言うと、組合長は困ったように笑った。


「そう思いたいんだがな。昨日は三人で確認したんだ。“確かに足りなかった”って」


その横で、相沢 恒一が帳簿を覗き込みながら、

いつもの柔らかい笑みを浮かべた。


「いやあ、僕のせいですよ。昨日はバタバタしていて、数字の扱いを少し間違えたんでしょう。すみません、皆さんを騒がせて」


相沢は軽く頭を下げた。


「会計がずさんだと思われないよう、今後気をつけます」


その仕草は誠実そのものに見えた。

相沢はすぐに笑顔を取り戻し、


「千束さん、暑いでしょう。どうぞ」


と冷たい麦茶を差し出してきた。

恭介は受け取りながら、その優しさにどこか引っかかりを覚えた。

事務所の隅では、ヴァレリーが静かに座っていた。

黒い毛並みが扇風機の風に揺れ、金色の瞳が相沢の動きをじっと追っている。


(おい、そんなに見るなよ……)


恭介が小声で注意すると、ヴァレリーはゆっくりと瞬きをした。

“見る価値がある”と言いたげに。

組合長が帳簿を片付け、


「まあ、戻ったなら良かったじゃないか」


と言うと、

周囲の店主たちも安堵したように頷いた。

だが、恭介だけは胸の奥に小さな棘が残った。


(消えた金が……勝手に戻るなんてこと、あるか?ないな。なら相沢さんがいうようにミスか…)


証拠はない。

ただの違和感だ。

だが、その違和感は、夏の湿気のようにじっとりとまとわりついた。

事務所を出ると、外の空気はさらに熱を増していた。

夕立の気配が漂い、空の端に灰色の雲が見える。

恭介が歩き出すと、ヴァレリーが横に並んだ。

しばらく無言で歩いたあと、ヴァレリーがぽつりと言った。


「妙だな」


「何が」


「金というのは普通――」


ヴァレリーは恭介を見上げ、その瞳に静かな光を宿した。


「消えたら戻らない」


恭介は足を止めた。

蝉の声が、まるで警告のように響いていた。


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