第1話 祭りの前日
駅前の商店街は、朝から妙に浮き足立っていた。
赤い提灯が等間隔に吊るされ、
屋台の骨組みが道の両側に並んでいる。
まだ開店前だというのに、すでに焼きそばの試作の匂いが漂っていた。
「千束くん! こっち運んで!」
八百屋の女将が大声を張り上げる。
「はいはい」
恭介は段ボール箱を抱え直し、台車へと積み替えた。
今日は探偵ではなく、ただの人手だ。
「若い男手があると助かるねぇ」
「探偵って言っても、平和なもんですから」
「平和が一番だよ」
その言葉に、恭介は曖昧に笑った。
昨日の太鼓の音が、ふと脳裏をかすめる。
ドン。
思い出した瞬間、背後で本物の太鼓が鳴った。
「うわ」
振り向けば、青年団が試し打ちをしている。
リズムは揃っている。
昨日感じた“乱れ”など、どこにもない。
(……気のせい、か)
足元をすり抜ける影。
「おい、危ないぞ」
黒猫ヴァレリーが屋台の脚を軽やかにかわして進む。
首輪はしていないが、なぜか商店街の人々は誰も気にしない。
「あら、ヴァレちゃん今日も来たの?」
和菓子屋の店主がしゃがみ込み、黒猫の頭を撫でようとする。
ヴァレリーは一歩引いて、代わりに恭介を見る。
「撫でるなら俺経由らしいです」
「なにそれ」
笑いが起きた。
そのとき。
「千束さん!」
声をかけてきたのは、履物店の三代目――相沢 恒一だった。
白い作務衣に汗が滲んでいるが、その顔は明るい。
「手伝いに来てくれたんだね。助かるよ」
「まあ……頼まれたので」
恭介が曖昧に笑うと、相沢は嬉しそうに頷いた。
「今年の祭りは特に力を入れてるんだ。商店街の未来がかかってるからね」
真剣な口調だった。
「今年は絶対に、問題を起こすわけにはいかないんだ」
「祭りで問題なんて起きませんよ」
恭介が笑う。
相沢は、ほんの一瞬だけ言葉を止めた。
「……そうだといいんだけどね」
すぐにいつもの笑顔に戻る。
「そうだ。ちょうどいいところに来てくれた」
相沢は履物店の奥へ恭介を手招きした。
作業場の机の上には、茶色い封筒がいくつも並んでいる。
横には小型の機械。
「売上金の封筒だよ」
相沢は機械を指差した。
「ヒートシーラー。熱で封をするんだ」
スイッチを入れると、細い金属のバーがじわりと赤くなる。
「これで閉じれば、もう開けられない」
相沢は封筒を挟み、軽く押さえた。
ジッ。
小さな音。
封筒の口が、ぴたりと閉じる。
「一度閉じたら、破らない限り開かない。だから祭りの売上管理には便利なんだ」
恭介は感心して頷いた。
「へえ」
相沢は封筒を机に置く。
そのときだった。
ヴァレリーが机の上へ軽く跳び乗る。
黒い尻尾を揺らしながら、封筒をじっと見つめた。
金色の瞳が細くなる。
「おい、邪魔するな」
恭介が抱き上げる。
ヴァレリーは抵抗せず、ただ封筒から目を離さなかった。
相沢が笑う。
「猫も祭りが気になるのかな」
「食べ物の匂いでしょう」
恭介はそう言って、猫を床に下ろした。
ヴァレリーは一度だけ瞬きをする。
まるで、
“覚えておけ”
と言うように。
恭介は気づかず、封筒を手に取った。
その封印は、まるで最初から開くはずなどないもののように――
完璧に閉じられていた。




