プロローグ 夏の昼下がり
照りつける強い陽射し。
空気はアスファルトからの熱で揺れていた。
歩道の白線は溶けかけたように滲み、信号待ちの人々は皆、同じように額に手をかざしている。
蝉の声は遠慮なく重なり合い、まるで空そのものが鳴いているようだった。
駅前の商店街の喧噪から逃れるように建つ古びたビル。
その二階にある探偵事務所では、古いエアコンが喘鳴のような音を立てながら、
懸命に冷気を送り続けていた。
だが吐き出される風はどこか頼りなく、湿った空気を撫でるだけで消えていく。
吹き出し口から落ちた水滴が、ぽた、と床に小さな染みを作った。
ブラインド越しの西日が、舞い上がる埃を金色に染める。
事務所の奥には事務机。
その机に頬をつけた千束恭介は、ラワン材のざらつきをぼんやりと感じていた。
黒髪は相変わらず好き勝手に跳ね、洗いざらしのシャツとデニムは、今日もアイロンの気配がない。
だが手足が長いせいか、不思議とだらしなく見えないのが救いだった。
恭介はコーヒー缶についた結露が落ちるのを眺めながら、
小さく息をついた。
「……平和だ」
ほんの少し前まで、この事務所は雑多で散らかり放題だった。
それが今では、古いながらも居心地の良い空間になっている。
理由はひとつ。
家令・藤堂の“手配”だ。
恭介は視線を巡らせる。
(……あの人は、俺より俺の生活を知っているんじゃないか)
机の上の書類は種類ごとに整然と並び、棚の鍵はいつの間にか“藤堂仕様”の位置に移されている。
恭介が触った覚えのない場所まで、完璧に磨かれていた。
引き出しを開ければ、ペンは同じ向きに揃えられ、クリップの箱は角度まで正されている。
恭介の癖で右に寄せていた電卓さえ、中央へと戻されていた。
(……いつ来たんだ、あの人)
思わず背筋がひやりとする。
藤堂の笑みは柔らかい。
だが、あの笑みの奥には“逆らえない何か”が潜んでいる。
恭介が書類の山を動かそうとしたとき、ソファの上から小さな欠伸が落ちた。
長いソファの中央には黒猫が寝そべっている。
手足の先と首回りからお腹にかけて白い毛並み。
右のウイスカーパッドには五日月模様。
黒い鍵しっぽが、ゆっくりと揺れた。
猫の名前はヴァレリー。
太鼓の音が、ひときわ強く鳴った。
その瞬間、ヴァレリーの耳がわずかに伏せられる。
だが騒音そのものに反応した様子はない。
視線は、窓の外。
商店街のさらに奥。
金色の瞳が、細くなる。
「……騒がしいな」
「祭りだからな」
「そうだな」
短い返答のあと、尾が一度だけ揺れた。
それは肯定とも否定ともつかない、曖昧な動きだった。
あの雨の日から、ずっと一緒にいる。
猫が怖い筈の自分が、不思議なことにヴァレリーだけは怖くない。
恭介が書類を動かす手を止めると、ヴァレリーは薄く片目を開け、
「そこは動かすな」とでも言いたげに睨んだ。
「……はいはい」
恭介は思わず手を引っ込める。
藤堂にも逆らえないが、この猫にも逆らえない。
むしろ藤堂のほうが、ヴァレリーに対しては妙に腰が低い。
先日も、事務所に来た藤堂が
「本日はご機嫌麗しいようで」
と、敬語で話しかける。
ヴァレリーと藤堂との間には時間の積み重ねを感じた。
(……どっちが家令なんだか)
恭介は苦笑する。
あの雨の日から、どれくらい経っただろう。
一条寺家の相続人。
ようやく周囲も落ち着いてきたが、慣れないことばかりだ。
外から、祭りの準備の太鼓の音が聞こえてくる。
夏の匂いが、窓の隙間から入り込んだ。
恭介は立ち上がり、伸びをした。
「……さて。今日も平和で終わるといいんだけどな」
ヴァレリーは尻尾を一度だけ揺らした。
その仕草は、まるで
“それはどうだろうな”
と言っているようだった。
第2章、楽しんでいただけたら嬉しいです。




