第5話 静かな焦燥
屋敷の空気が、わずかに変わったことに最初に気づいたのは家令の藤堂だった。
彼は廊下を歩きながら、足を止める。
目は細く、いつもは穏やかな笑みを湛えている口元も、今はわずかに硬い。
背は少し高く、グレーヘアはきちんと撫でつけられている。
その温厚な姿は、長年この屋敷を支えてきた年月を物語っていた。
だが——
「……ヴァレリー様?」
暖炉の前にいない。
いつもなら、あの雄猫は人の動きを観察するようにそこにいる。
窓辺にもいない。
階段の踊り場にも。
胸の奥が静かにざわつく。
藤堂の歩調がほんの少し速くなる。
「おかしい」
声は低いが、静かに焦りが混じる。
実淳の最期の言葉が脳裏をよぎる。
——頼む。
あのときの痩せた手の感触が蘇る。
藤堂は唇を引き結んだ。
「まさか……」
サロンからはまだ談笑の声がする。
宗三郎の低い声。
妹婿の相槌。
圭祐の短い返事。
藤堂はそちらを見やる。
その目は、細いながらも鋭かった。
温厚な仮面の下で、確かに何かが動き始めている。
(旦那様……)
胸の内で呟く。
焦燥は、静かに広がっていった。
藤堂は一度深く息を整えた。
サロンの扉をノックする。
「失礼いたします」
宗三郎が振り向く。
「何かね」
「ヴァレリー様をお見かけになりませんでしたか」
一瞬だけ、間。
宗三郎は眉をひそめる。
「猫か。知らんな」
声音は冷たいが、過度ではない。
「暖炉の前にいなかったのか」
「ええ。それで……」
宗三郎は鼻を鳴らす。
「屋敷は広い。どこかで寝ているのだろう。猫というものは気まぐれだ」
藤堂の細い目が、わずかに揺れる。
「……そうでございますか」
宗三郎は紅茶を口に運ぶ。
「まさか、いなくなったとでも言うのか?」
「いえ。ただ、少し気になりまして」
空気が、ほんのわずかに硬くなる。
圭祐がちらりと藤堂を見る。
妹婿は視線を逸らし、カップを持ち直す。
藤堂は一礼した。
「失礼いたしました」
談笑の声は、まるで何事も起きていないかのように続いていた。
扉を閉めたあと、その穏やかな口元から、笑みが消える。
(旦那様……)
焦燥は、確信に変わりつつあった。
廊下を進む藤堂の足取りは速いが、音は立たない。
暖炉の前。窓辺。階段下。
どこにもいない。
裏口の鍵に触れた指先を、家令はゆっくり離した。
冷たい。
つい先ほどまで、人の体温があったかのように。
廊下の奥から、かすかな笑い声が聞こえる。
何事も起きていない屋敷の音。
藤堂は目を閉じる。
(ああ、旦那様……)
再び目を開けたとき、その細い瞳には、静かな光が宿っていた。
だが、まだ何も言わない。
屋敷は、変わらず穏やかな顔をしていた。
——ヴァレリーの姿だけが、ない。
それは、この屋敷にとって初めての“異変”だった。




