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黒猫ヴァレリーの事件簿  作者: 高梨 梛
第1章 雨の日の遺言
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第1話  約束を託す夜

 一条寺家(いちじょうじけ)の洋館は、夜の庭園を見下ろすように静かに佇んでいた。


 赤煉瓦あかれんがの壁は月明かりを受けて鈍く光り、いくつもの窓は固く口を閉ざしている。昼間には手入れの行き届いた薔薇ばらが咲き誇る庭も、今はひっそりと眠りの中にあった。

 この屋敷は長いあいだ、ひとりの主人と共に時を過ごしてきた。

 その主人が、今まさに旅立とうとしていることを、屋敷自身も知っているかのようだった。

 館の奥、重い扉に守られた寝室には、ベッド脇のランプの柔らかい光がかすかな灯りとして残されている。

 天蓋付きの大きなベッドの上に、一条寺実淳(いちじょうじさねあつ)は横たわっていた。

 かつては多くの人間が彼の一言で動いた。恐れられ、敬われ、逆らう者はいなかった。

 だが今は、ただの小さな老人に見えた。

 呼吸は浅く、肩はかすかに上下しているだけだ。

 その胸元に、一匹の猫が丸くなっていた。

 黒い毛並みのなかに、手足の先と首元からお腹周りだけが白い毛を持ち、顔の右のウイスカーパッドには五日月の白い模様がある猫――ヴァレリーは、いつもと同じように、そこにいた。


 まるで、それが自分の場所であるかのように。


 実淳は、ゆっくりと手を持ち上げた。


 骨ばった指先で、ヴァレリーの頭を撫でる。


 猫は嫌がりもせず、猫はゴロゴロと喉を鳴らす。


「……お前は、変わらんな」


 かすれた声で言った。


「最初に会ったときから、ずっとそうだ」


 ヴァレリーは片耳をわずかに動かした。


「お前だけは、ずっとそばにいてくれたな」と呟く。


「当然だ。それに私は優秀だからな」


 静かな声が返る。


 部屋には、老人と猫しかいない。


 実淳は、かすかに笑った。


「優秀、か……そうだな」


 しばらく、沈黙が続いた。


 外では風が枝を揺らし、どこかで夜鳥が鳴いた。


「……わしは、良い父親ではなかった」


 ぽつりと、実淳が言った。


 それは誰に聞かせるでもない言葉だった。


 ヴァレリーはもぞもぞと動き、ベッドの上で少し体勢を変えた。


「家のことばかり考えていた。守ることばかり考えていた」


 ヴァレリーは目を細めて聞いている。


「息子は、それを嫌った」


 指先が、猫の背をゆっくりとなぞる。


「当然だな」


 ヴァレリーが言った。

 実淳は小さく息を漏らした。


「……お前は、容赦がない」


「事実は、総じて優しくないものだ」


 猫は落ち着いた声で続ける。


「だが、後悔しているのだろう」


 実淳は目を閉じた。


「ああ」


 迷いのない答えだった。


「わしは、あの子を追い出した」


 時計の針が、微かな音を刻む。


「戻ってこなかった。……当然だ」


 しばらくして、彼は再び目を開けた。


「だがな、ヴァレリー」


 猫の金色の瞳が、老人を見つめ返す。


「もし……もし、あの子が戻らなかったとしても」


 息が浅くなる。


「その血を引く者が、どこかにいるかもしれん」


 ヴァレリーの尻尾が、ゆっくりと揺れた。


「匂いは残る」


 静かに言った。


「血も、記憶も」


 実淳は、安堵したように息を吐いた。


「そうか」


 再び、猫の頭を撫でる。


「ならば、頼む」


 その言葉には、かつて部下に命令したときのような強さはなかった。


 ただ、一人の老人の願いがあった。


「お前が、見つけてくれ」


 ヴァレリーは瞬きを一つした。


「お前なら、わかるだろう」


 猫はしばらく何も言わなかった。

 そして、静かに答えた。


「任せろ」


 それは短く、しかし確かな言葉だった。

 実淳の口元に、微かな笑みが浮かぶ。


「……そう言えば、あの子は、猫が嫌いだったな」


 懐かしむように言った。


「猫の魅力がわからなかったのだな」


「ふふ……そうかもしれん」


 それが、最後の笑いだった。

 老人の手が、ゆっくりと滑り落ちる。

 呼吸は、もう戻らなかった。

 部屋は再び静かになった。

 ヴァレリーは動かなかった。

 ただ、老人の胸の上で座り続けていた。

 やがて、ゆっくりと顔を上げる。

 金色の瞳は、暗い部屋の向こうを見ている。


「安心しろ」


 誰にともなく言った。


「約束は守る」


 屋敷は静かにそれを聞いていた。

 その夜、一条寺家の運命は、新しい主を待ち始めた。

 そして、遠く離れた街の片隅で。


 猫が苦手な一人の男が、自分の運命をまだ知らずに眠っていた。

 彼の人生が、まもなく大きく変わることも知らずに。

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