第3章 手のひら返し 1
その青年が、少し残業をしてから、工場を出ると外はもうすっかり暗くなっていた。
マシニングセンタを使って切削加工をしていた金属の匂いがまだ鼻に残っている。
作業着の袖口には、機械油の黒い染みがいくつもついていた。
アパートに帰る途中にある公園のベンチに座ると、青年は、スマートフォンを取り出し、メッセージアプリを開いた。
《もうすぐ給料日だよ》
画面の向こうにいるのは、母国に残した妻だった。その横で、まだ小さな子どもが、スマートフォンを覗き込みながら手を振ってくる。
《パパ、いつ帰ってくるの?》
青年は、一瞬だけ言葉に詰まったが、すぐに、子どもに向かって笑った顔を見せる。
《もう少しだよ。お金たくさん貯めたらね》
特定技能外国人として金属加工の工場で働く彼が、実際に母国に帰れるのはまだ何年も先だった。だが、それでもいいと思っていた。
この国で働いて、大切な家族に仕送りができていること。それだけで、自分は役に立っているのだと信じていた。
やがて同じ工場で働く仲間たちが現れ、缶コーヒーを手に自然と輪ができた。母国の言葉で家族のこと、仕事の愚痴を語り合う、この短い時間が、彼らにとって唯一の息抜きだった。
植え込みの陰で、ガサッ、と乾いた音がした。青年が振り返った瞬間、何人かの影が無言で迫ってくるのが見えた。
次の刹那、後頭部に激しい衝撃。何が起きたのか理解する間もなく、視界が反転し、何か起きたのかもわからないまま彼は意識を失った。
その晩、和臣のスマホにニュースが出ていた。
〈外国人男性、都内で集団に襲われ意識不明の重体〉
記事に添えられた事件現場とされた場所に見覚えがあった。それは和臣が最初に「危険人物」として晒した外国人のいた公園。そして被害者は状況から考えると公園にいたあの外国人のように思えてならなかった。犯人グループはその場で駆け付けた警察官に取り押さえられたが、犯人は「外国人が公園でたむろして、治安を悪化させ、近隣住民に迷惑をかけている」ので、それを糾弾するために暴行に及んだ、そして「それが間違っているとは思わない」と供述していると報道されていた。
それを見た和臣の胸の奥で、何かが崩れた。
(……嘘だろ)
ネットニュースのサイトに出ていた被害者の青年のプロフィールを見返す。
勤務先の工場で働く姿、休日の公園での写真。
明らかに、普通に働き、普通に暮らしていただけの人だった。そして母国では妻と幼い子どもが被害者の帰りを待っていた。
「違う……違うだろ……」
和臣の喉が震えた。
だが、SNSのタイムラインは容赦なく祭り上げる。
「ざまあみろ!」
「侵略者が何様のつもりだ!」
「日本の敵は出ていけ!」
「この犯人は正義だ」
時折、被害者のことを考えろ、という投稿もあったが、あっという間に「日本人の仕事を奪っておいて、被害者はこっちだ」といった投稿に埋め尽くされて、消えていった。
画面が、血のように赤く見えた。
《和臣さん、すぐに会いたい》
夕暮れ色の空の下、スマートフォンの画面が淡く光った。
ミケからのメッセージだった。
和臣は、しばらくその文字を見つめたまま動けなかった。それでも、震える指で「はい」と返事を打った。
夜の多摩川河川敷。
街灯は等間隔に並んでいるのに、足元だけが妙に暗い。
遠くの道路を走る車の音が、低い唸り声のように川沿いに流れている。
草の匂いと、湿った土の匂い。
風が、濡れたような冷たさで頬を撫でた。
ミケは、ベンチのそばに立って待っていた。その姿が細い街灯の光に照らされ、髪が微かに揺れているのが見えた。
「あのニュース……見た?」
「僕……僕はただ……日本を守りたくて……」
それは、もう誰にも届かない言葉だった。
和臣は唇を強く噛みしめ、無意識に自分の拳を握りしめた。そのまま、自分の太ももを一度、強く殴った。
ボンッという鈍い音が響く。
でも、痛みではなく、心に空洞があるかのような空虚な感覚だけが広がっただけだった。
「僕が晒したから……あの人……」
その悔恨は、幼い子どもの泣き声のように脆かった。
ミケは、迷うように一歩踏み出したあと、ゆっくりと和臣の手を握った。ミケの手はとても温かくて、柔らかかった。
「和臣さん、あなたのせいじゃない。あなたは何も悪くないの」
あの青年は、ただ、妻と子どものために日本に稼ぎに来ただけの、善良な労働者だった。それなのに、自分が煽ったことがきっかけになって、こんなことになってしまったのだと、和臣は深い後悔と罪悪感に襲われていた。
和臣は俯き、ミケの手に包まれたまま拳を強く握りしめる。
「ミケさん……僕、どうすれば……」
遠くを通り過ぎる列車の音が、水面のさざ波のように聞こえてきた。
「和臣さん……自分が信じた道でいいの。あなたは何も間違っていないのよ」
ミケは、そう言いながら喉の奥で、自分自身の何かがちぎれそうになった。
(ちがうの。今ならまだ間に合うから……もう引き返して……)
でも、それは言葉にはならなかった。
その代わり、和臣の肩を強く抱きしめた。和臣の体温が、薄いコート越しに真っ直ぐに伝わってくる。その温かさが、まるで刃のようにミケの胸を締めつけた。
遠くで救急車のサイレンがかすかに響き、川面に反射する光が、わずかに赤く滲む。
それは、この国の未来が、誰かの叫び声を踏みつけながら、ゆっくりと、確かに歩いていく音のようだった。




