第2章 機密情報 1
A国大使館近くにあるマンションの地下駐車場。そのすぐ横にコンクリートの小部屋がある。壁は厚く、外からの音は一切入ってこない。
ミケは、無機質な蛍光灯の光に照らされて座っていた。
目の前の男……B中佐が、分厚い書類の束を机に置く。
「岡田和臣は、私が大使館で働く民間の事務補助員だという設定を、そのまま受け入れています。それに、現実の世界で活動をするのは苦手だと言っていて、社会的な居場所は、ほぼネット空間のみです」
「順調だな。単純で使いやすい奴だ。」
「報告は全て本国にも送っています。でも……中佐、どうしてここまでするんですか?」
ミケは少し目を伏せ、言葉を選んだ。
「この国の中で、我々を批判するような情報を広げても、敵対する勢力が強くなるだけです。それでは……何の利益にもならないのでは?」
問いかけに、B中佐は鼻で笑った。
「利益にならない?
いや、むしろそれが利益なのだよ」
その声は抑えられているのに、不気味な響きを伴っていた。
「我々が使っている細胞(cell)はもちろん岡田和臣だけではない。彼のように全く無名な者から、すでに有名になっているインフルエンサーやコメンテーター、それにタレントもいる。たくさんの細胞が、それぞれ自分は正しいと心から信じて、A国を、A国人を誹謗しているのさ」
B中佐はそこで言葉を止めた。空調の微かな唸りだけが部屋の天井を這う。
やがて、彼はゆっくり顔を上げた。
その動きはゆったりしているのに、視線が合った瞬間、ミケは語気よりもはるかに重たい圧力を感じて背中が冷たくなるのを感じた。
ミケから視線を外さないまま、B中佐の右手がテーブルの資料に伸び、ふっと紙束の端を軽く弾く。薄い紙がひらりと浮き、そこから魂が抜けるかのようにすっと落ちた。
この一枚に書かれた誰かの名前や発言は、彼にとって塵と変わらない。操作され、燃料にされ、使い捨てられる匿名の群れでしかなかった。
「我が国に対する敵対勢力が大きくなる。それだけでいいんだ。彼らは必ず“過剰に”反応する。そしてこの国の中で対立が深まる」
B中佐の視線を避けるように下を向いていたミケはゆっくりと顔を上げる。
「日本国内の極右勢力を強めることで……国内を分断する、と?」
「そうだ。我々A国や外国人への憎悪が膨れ、過激な政治家が支持されはじめる。言論が攻撃性を持ち、この国の民主主義は内側から腐る」
B中佐は、面白がるように肩を揺らした。
「均衡が崩れれば、彼らは自ら動き出す。それが望ましい」
「……A国国内では、反日キャンペーンを続け、日本ではA国を嫌う勢力を育てる」
「互いに嫌い合えばいい。憎み合えばいい。そうすれば……いずれ、戦わざるを得なくなる日が来る」
ミケの目に、一瞬ためらいがよぎった。
和臣の笑顔が脳裏に浮かぶ。
だが、中佐は冷徹な声で釘を刺す。
「迷うな。お前はただ任務を遂行すればそれでいい」
ミケは唇を噛み、深くうなずいた。
「……はい。引き続き、岡田和臣に“真実”を届けます」
「そうしろ。あの男の心には、すでに十分な炎が灯っている。あとは、燃え広がるのを見ていればいい」
ミケは椅子から立ち上がり、出口に向かう。
扉に触れる前、
ほんの一瞬だけ、振り返った。
「……………………」
胸の奥のざらつきは、ただの気の迷いだと自分に言い聞かせる。
扉が閉まると、部屋に残されたB中佐は薄い笑みを浮かべた。
「愚かなものだ……人間というのは」




