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騙し絵  作者: 星 則光
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第8章 エピローグ

 ニュージャージー州の内陸に、小さな牧場があった。

 長い間、人の気配が絶え、柵は傾き、納屋の屋根には蔦が絡まっていた。

 そこに向かう舗装の途切れた道を、古いトラックが埃をあげて登ってくる。


 荷台には二つのスーツケース。

 その中には、少しの衣類と、いくつかの書類。


 トラックが停まると、東洋人の男女が降り立った。

 男は小柄で、どこか落ち着かない仕草を見せる。

 女は長い黒髪を後ろで一つに束ね、淡々と辺りを見回していた。


「……ここで合ってるのかな?」

 和臣が訊く。声は弱々しく、どこか子どものようだった。

 ミケは手にした鍵をかざし、静かに頷く。

「合ってる。私たちの新しい家よ」


 和臣は頷き、トラックの荷台からスーツケースを下ろした。

 風が吹き抜け、乾いた草がざわめく。

 遠くでカラスが鳴き、それを聞くように彼は肩をすくめた。

「なんだか、静かすぎるな」

「静かでいいじゃない」

「いや、その……落ち着かなくて」


 ミケは微笑んだ。

「いままで落ち着いたことなんて、あった?」

 その言葉に、和臣は返す言葉を見つけられなかった。

 鍵が回り、古い扉がゆっくり軋みながら開いた。

 乾いた木の匂いと、長く閉ざされていた家のひんやりした空気が二人を包む。


 部屋の中は、空っぽではなかった。

 小さなダイニングテーブルと、並べられた簡易ベッドが二つ。

 新品の皿やカトラリーが箱のままキッチンに置かれており、

 “これだけあれば今日から暮らせる”ような最低限の準備だけは整っていた。


 しかし、その簡素な部屋に、ひとつだけ、不自然に存在感を放つものがあった。

 白い壁に掛けられた、一枚の絵。そして、その絵の下にはさりげなくラベンダーのドライフラワーが置かれていた。


「……この絵」

 ミケは小さく息をのむ。

 それは彼女がよく知っているものだった。

 アイシャ・ラーマンの執務室に飾られていた騙し絵。ミケは、しばらく絵から目を離せずにいた。見覚えがある、という感覚では済まなかった。


 そして、このラベンダーのドライフラワー。

(……あの人らしい)

 その思いは、言葉にならなかった。

(……あなたは……私を手放してはくれないのね)


 心の中で、そう呟く。

 それは恐れではなかった。

 諦めでもなかった。

「理解」だった。


 外で、風が柵を揺らす音がした。

(……私たちの先は……きっと……)

 その続きを、考えるのはやめた。


「……変な絵だね。なんか、角度で全然ちがって見える。なんでこんな絵があるんだろう」和臣の言葉に、ミケは軽く笑い、何気ない調子で答えた。

「前の住人が置いていったのかもしれないわ」


 ほんの一瞬だけ、胸の奥に痛みが走ったが、すぐに消えた。

「……本当に、ここで暮らせるのかな」

 和臣がぽつりと言う。


 ミケはその肩に触れ、穏やかに笑った。

「暮らせるわよ。……ずっと。二人で」


 和臣は唇を噛み、視線を落とした。その仕草には、何かを謝りたいような遠慮が滲んでいた。彼の胸の中には、まだ“救われた側”としての負い目が残っている。


「僕……また迷惑かけるかも」

「迷惑なんて、そんなもの、もうないわ」

 ミケは冷ややかに言いながらも、どこか優しい響きを残した。

「もう命令も、上司も、国もない。誹謗中傷もないのよ」


 和臣はうなずきながら、トラックの荷台に手をかけた。

「荷物、運ぶよ」

「いい。あなたは中を見て」


 彼は思わず「うん」と答えた。

 その一言さえも、まだどこか遠慮がちだった。

 外では風が強くなり、納屋の扉が音を立てた。そして遠くの丘で、何かが一瞬だけ太陽の光を反射する。


 ミケはそれに気づいても何も言わなかった。

 彼女は、すでにその存在を知っている。それが“見張り”なのか“保護”なのか、彼女にとってはもう意味をなさなかった。



 日が傾き、牧場に長い影が伸びていく。

 和臣は窓際に立って、外に広がる夕暮れの牧場を見渡した。その光景が日本から遠く離れたこの土地で、自分がまだ生きている証のように思えた。


 背後でミケが言った。

「夜は冷えるわ。暖炉に火を入れて」

「うん。火のつけ方、教えてもらってもいい?」

「そのくらい自分でやってみなさい。もうすぐ、あなたが“夫”になるんだから」

 ミケのその言葉に、和臣は小さく息を飲んだ。


 彼の中で何かがほどけたように、ぎこちない笑みが浮かんだ。

 外の空では、一本の飛行機雲が白く伸びて、風がそれをゆっくりとほどいていく。

 ミケはそれを見上げて、静かに言った。


「風が、変わったわ」

 和臣は頷き、まだ頼りなげな声で言った。

「……うん。でも、いい風だね」

 彼の言葉に、ミケは何も答えずに、ただ、ドアを閉めた。

(完)


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