第7章 緊張の海 2
その少し前、A国首都の大統領府。
大統領府内の白い病室の中で、酸素吸入器がかすかに鳴っていた。
大統領はまぶたを開け、ぼやけた天井を見上げた。
脳梗塞からの意識回復は、ほんの数分前。
半身はまだ動かず、指先さえ思うようにならなかった。
だが、言葉だけは残っていた。
「……状況を……報告しろ……」
掠れた声に、秘書官が駆け寄る。
端末には、灰色の海と二つの航跡。
副大統領と参謀本部長はこの事態を「日本の巡視船が意図をもって一方的に境界を越えた可能性あり」と大統領府に報告していた。
それは、A国から見れば虚偽ではない。しかし、今までそれは両国の間で政治的に「棚上げ」されてきている。
だが、今回、その“可能性”は大きく誇張され、軍の行動を正当化する理由に変えられていた。
「……命令を……取り消せ……」
大統領の声が震えた。
「権限は、まだ副大統領に……」
秘書官が答えようとした瞬間、大統領は目を閉じ、息を吸い込んだ。
「伝えろ。……回避せよ。……日本船に絶対にぶつけるな」それは、この国の権限が大統領に戻った瞬間だった。
秘書官が震える手で暗号送信を打ち込む。
信号は管制センターを経て、海軍司令部、艦隊旗艦、そして現場の艦へ。
伝達に六十秒。
その六十秒が、すべてを決める。
「大統領府より至急電!」
通信士の声が艦橋を震わせた。艦長は報告書を受け取り、数行を読み上げた。
「全力で回避せよ!」
一瞬、時間が止まった。
艦長は息を吸い込み、命じた。
「面舵二十。のち、面舵一杯! 機関、全速前!」
舵輪が止めまで回る。
艦体が軋み、窓を波が叩いた。
海面が大きく盛り上がり、航跡が激しく乱れる。
「CPA三百メートル! 残り一分!」
「衝突回避!」
航海士の声が震えた。
艦長は前を見た。
白い巡視船も大きく傾きながらも、ゆっくりと舵を戻している。この艦の甲板員が先に巡視船に手を振ったらしい。巡視船の甲板でも、それに応えて数人が手を振っていた。
艦長は顎を引いてちいさくつぶやいた。「最後まで一歩もひかない、君たちはやはりサムライだな」
戦が起こることはなかった。もちろん世界は今ここで何が起きたかは永遠に知ることもない。
艦橋に、ようやく呼吸のリズムが戻り始めたころ、当直士官が、ためらいがちに艦長の横に進み出た。
「艦長……ひとつ、お聞きしてもよろしいでしょうか」
艦長は答えず、前方の海から目を離さなかった。
「もし……もしも、あの時、大統領府からの命令がなかったら……我々は、どうしていたのでしょうか」
計器の微かな駆動音だけが、艦橋に響く。艦長はすぐには口を開かなかった。
「命令に従うだけだ」
艦長は、振り返らずに言った。
「それが、我々の使命だからだ」
当直士官は、それ以上、何も言わなかった。
その答えが、覚悟なのか、諦めなのか、彼自身にも判別がつかなかったからだ。
巡視船「いそざき」のブリッジでは、警報灯が消え、照明が白く戻っていた。
通信士が報告する。
「A国艦、離脱確認。針路、南東へ変更」
航海長が窓を見た。
灰色の艦が、朝の光の中、その姿を小さくしていく。
波音だけが残っていた。
船長は深く息を吸った。塩と鉄の匂いが胸に広がる。
ブリッジには、まだ緊張の名残のような静けさが漂っていた。
航海長が、窓の外から目を離さないまま、低く言った。
「……あれは、何だったんでしょうか」
船長は、すぐには答えなかった。
「あのチキンレースは……示威だったんですか。それとも……」
船長は、航海長の言葉を静かに遮った。
「最初から最後まで、命令だ」
航海長が、わずかに目を見開く。
「向こうの艦長はな、“武人”だ。
ああいう男は、自分の考えで船を前に出したりはしない。その代わりどんなに危険でも、どんなに愚かな命令でも、命じられれば、そのとおりに動く」
航海長は、しばらく沈黙した。
「……では、さっきのあの動きも」
「ああ。命令があったから出てきて、命令があったから、引いた。それだけのことだ」
船長は、窓の外の海を見つめたまま、低く続けた。
航海長は、それ以上、何も言わなかった。
若い航海士がぽつりと呟いた。
「このことは……誰にも、知られないんでしょうね
船長は頷いた。
「それでいい。誰も知らなくていい。……この海が覚えていれば十分だ」
風が吹き抜け、波が静かに揺れた。雲の切れ間から、陽光が差し込み、鉄色の海が、わずかに金色に変わった。
数日後、防衛省は哨戒機から撮影された写真とともに「A国のフリゲート艦が我が国の接続水域を航行した」とだけひっそりと発表した。
日本側もA国側も、それぞれの外交当局同士の判断でそれ以上の報道は行われなかった。夕方のニュースは、いつものように事件と、株価と、芸能人の不倫を報じただけだった。
衛星監視映像は“通信障害のため解析不能”と処理され、双方の記録は封印され、その場にいた者の記憶に残るだけだった。
あの朝、二隻の船が、国境のない海で向き合ったことを。
そして、わずか数分間という時間に、人間の理性が、確かに存在したということを。




