第7章 緊張の海 1
朝の光はまだ海面全体に届いていなかった。薄い雲が太陽を覆い、海は鈍い鉄の色をしている。風が落ち着かず、波頭が白く裂け、緊張に海全体が息をひそめていた。
ここは、日本の実効支配が及んでいるが、A国も領有を主張する海域。
地図に線は引かれているが、波の上には何もない。
だからこそ、どちらが進み、どちらが退くか……それが国家の意思と見なされる。
レーダーの電子音が海上に船舶を捉えたことを告げる。。
「前方、相対方位〇二五、レンジ一・五海里。日本の巡視船と推定。速力二〇ノット、針路変化なし」
航海士の声が乾いていた。艦橋の空気が鉄と油の匂いを帯びている。
艦長は視線を上げた。
灰色の海の彼方、小さな白い船が見える。あれが、この国の主張を拒む“壁”だった。
「減速するな。そのまま直進だ」
艦長の声は低く、重かった。
操舵手の手が舵輪の上でわずかに止まる。
「艦長、衝突すればこちらも……」
「それが命令だ。我が国の威信を示せ」
艦長は理解していた。
自艦は五千トンを超えるフリゲート。装甲も厚い、衝突すれば無傷では済まないが、こちらが沈むことはない。
しかし、相手は約千トンの巡視船。
ぶつかれば、砕けるのはあちらだ。
それでも上からの命令は絶対だった。戦略も、道理も、この海では遠い言葉だった。
「レンジ一・三海里。CPA六百メートル」
航海士の声が冷たく響く。
艦橋にいる全員が、静電気のような緊張を肌に感じていた。
このとき、この艦のそば“もうひとつの目”があることを、艦長も航海士もわかっていた。日本の哨戒機が離れたところから、こちらの一挙手一投足を確実に捉えている。
そして、そのさらに外側、水平線の向こうには、このフリゲートが所属する艦隊……A国の空母打撃群が、「演習」という名の下で沈黙の壁を築いている。
ここで何かが起きれば、取返しのつかないことになる。
だからこそ、軍艦がすぐそばまで来ているのに、日本は手も足も出せない。
そして……A国は、それをすべて承知の上で、なお前に出てきている。
巡視船「いそざき」のブリッジは、張り詰めた空気に満ちていた。
窓の外、灰色の艦影が近づいてくる。
波を切る音が、次第に地鳴りのように響き始めたようにも思える。
「前方、艦影一隻」
見張り員の短い報告に、ブリッジの空気が一段締まる。
「レーダー確認。前方正船首、A国軍艦」
当直航海士が淡々と続ける。
「針路、変わらず。距離一・三海里。速力、ほぼ一定」
レーダー画面には、異様なほど安定した光点が張り付いている。
回避の兆しは、ない。
「相手、こちらを捕捉しているか」
船長の問いに、航海士は一拍置いて答えた。
「間違いありません。目視でも、艦首がこちらを向いたままです」
航海長が顔を上げた。
「回避しますか!?」
船長は双眼鏡を外した。
「いや、まだだ」
手が汗で滑る。
退けば、“日本が引いた”と世界は見る。しかしこのまま進めば、命が失われかねない。
「進路維持。速力、半速。舵角五度保持」
声がわずかに震えた。
五短音の警笛が鳴った。
低く、重い音が薄い朝霧の中に溶けていく。
「こちら日本国海上保安庁巡視船。A国艦艇に通告。衝突の危険あり。直ちに針路を右へ変更されたし。繰り返す、変更されたし」
無線士の声がかすれる。
返答は、ない。
「距離一・〇海里、CPA四百五十メートル!」
航海士の報告が冷たく響く。
船長は時計を見る。
……あと三十秒。
計器の数字が、命の残り時間を刻むように光っていた。
彼は息を吸い込み、頭の中で舵効と速力を計算した。
まだ早い。まだ守れる。
……十秒。ここまでだ。
「面舵十。のち、面舵一杯!」
舵輪が一気に回る。
船体が悲鳴を上げ、窓に波が叩きつけられた。
同時に、灰色のフリゲートも大きく旋回を始めた。
海がうねり、二隻の航跡が交わらずに外れた。
「衝突回避!」
誰かが叫んだ。
誰もがほっと安堵のため息をついた。
その瞬間、窓の外に人影が見えた。
フリゲートの甲板で、一人の乗員が手を上げていた。
敬礼でも挑発でもない。ただ、生き残った者の正直な気持ちだった。
若い士官が窓に駆け寄り、思わず手を振った。
風が袖を膨らませる。
船長もゆっくりと手を上げた。
誰の命令でもなかった。
……それは人としての反応だった。
修正に手間取って、一日遅れになってしまいました。すみません……




