表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
騙し絵  作者: 星 則光
30/33

第7章 緊張の海 1

 朝の光はまだ海面全体に届いていなかった。薄い雲が太陽を覆い、海は鈍い鉄の色をしている。風が落ち着かず、波頭が白く裂け、緊張に海全体が息をひそめていた。


 ここは、日本の実効支配が及んでいるが、A国も領有を主張する海域。


 地図に線は引かれているが、波の上には何もない。

 だからこそ、どちらが進み、どちらが退くか……それが国家の意思と見なされる。

 レーダーの電子音が海上に船舶を捉えたことを告げる。。

「前方、相対方位〇二五、レンジ一・五海里。日本の巡視船と推定。速力二〇ノット、針路変化なし」

 航海士の声が乾いていた。艦橋の空気が鉄と油の匂いを帯びている。

 艦長は視線を上げた。


 灰色の海の彼方、小さな白い船が見える。あれが、この国の主張を拒む“壁”だった。

「減速するな。そのまま直進だ」

 艦長の声は低く、重かった。

 操舵手の手が舵輪の上でわずかに止まる。

「艦長、衝突すればこちらも……」

「それが命令だ。我が国の威信を示せ」


 艦長は理解していた。

 自艦は五千トンを超えるフリゲート。装甲も厚い、衝突すれば無傷では済まないが、こちらが沈むことはない。

 しかし、相手は約千トンの巡視船。

 ぶつかれば、砕けるのはあちらだ。

 それでも上からの命令は絶対だった。戦略も、道理も、この海では遠い言葉だった。


「レンジ一・三海里。CPA六百メートル」

 航海士の声が冷たく響く。

 艦橋にいる全員が、静電気のような緊張を肌に感じていた。


 このとき、この艦のそば“もうひとつの目”があることを、艦長も航海士もわかっていた。日本の哨戒機が離れたところから、こちらの一挙手一投足を確実に捉えている。


 そして、そのさらに外側、水平線の向こうには、このフリゲートが所属する艦隊……A国の空母打撃群が、「演習」という名の下で沈黙の壁を築いている。

 ここで何かが起きれば、取返しのつかないことになる。

 だからこそ、軍艦がすぐそばまで来ているのに、日本は手も足も出せない。

 そして……A国は、それをすべて承知の上で、なお前に出てきている。



 巡視船「いそざき」のブリッジは、張り詰めた空気に満ちていた。

 窓の外、灰色の艦影が近づいてくる。

 波を切る音が、次第に地鳴りのように響き始めたようにも思える。


「前方、艦影一隻」

 見張り員の短い報告に、ブリッジの空気が一段締まる。

「レーダー確認。前方正船首、A国軍艦」

 当直航海士が淡々と続ける。

「針路、変わらず。距離一・三海里。速力、ほぼ一定」

 レーダー画面には、異様なほど安定した光点が張り付いている。

 回避の兆しは、ない。


「相手、こちらを捕捉しているか」

 船長の問いに、航海士は一拍置いて答えた。

「間違いありません。目視でも、艦首がこちらを向いたままです」

 航海長が顔を上げた。

「回避しますか!?」

 船長は双眼鏡を外した。

「いや、まだだ」

 

手が汗で滑る。

 退けば、“日本が引いた”と世界は見る。しかしこのまま進めば、命が失われかねない。

「進路維持。速力、半速。舵角五度保持」

 声がわずかに震えた。


 五短音の警笛が鳴った。

 低く、重い音が薄い朝霧の中に溶けていく。

「こちら日本国海上保安庁巡視船。A国艦艇に通告。衝突の危険あり。直ちに針路を右へ変更されたし。繰り返す、変更されたし」

 無線士の声がかすれる。


 返答は、ない。

「距離一・〇海里、CPA四百五十メートル!」

 航海士の報告が冷たく響く。

 船長は時計を見る。

 ……あと三十秒。

 計器の数字が、命の残り時間を刻むように光っていた。

 彼は息を吸い込み、頭の中で舵効と速力を計算した。

 まだ早い。まだ守れる。


 ……十秒。ここまでだ。

「面舵十。のち、面舵一杯!」

 舵輪が一気に回る。

 船体が悲鳴を上げ、窓に波が叩きつけられた。

 同時に、灰色のフリゲートも大きく旋回を始めた。

 海がうねり、二隻の航跡が交わらずに外れた。

「衝突回避!」

 誰かが叫んだ。

 誰もがほっと安堵のため息をついた。


 その瞬間、窓の外に人影が見えた。

 フリゲートの甲板で、一人の乗員が手を上げていた。

 敬礼でも挑発でもない。ただ、生き残った者の正直な気持ちだった。

 若い士官が窓に駆け寄り、思わず手を振った。

 風が袖を膨らませる。

 船長もゆっくりと手を上げた。

 誰の命令でもなかった。

 ……それは人としての反応だった。


修正に手間取って、一日遅れになってしまいました。すみません……

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ