第一章 出会い 3
土曜日。
和臣はいつもより早く目が覚めた。鏡の前で何度も髪を整え、普段は着ないジャケットを羽織る。
(変じゃないか? でもダサいと思われたくない)
スマホの画面には「18:00 品川駅前」とだけ表示されている。
たったこれだけの予定が、人生で一番大きなイベントに見えた。
約束の時間より三十分も早く駅に着いた和臣は、落ち着かずに人の流れを眺めていた。
既読はまだついていない。
(本当に来るのかな……)
五分前、通知が鳴った。
「着きました。中央改札の時計のところにいます」
和臣は急いで改札へ向かった。
人の間から、白いワンピースの女性がこちらに気づいて、ふっと微笑む。
プロフィール写真のそのままの笑顔だった。
「和臣さん、ですよね? 初めまして」
「あ、はい……岡田です」
声は柔らかく、緊張をほぐすようにゆっくりとした調子だった。
至近距離で見ても、写真以上に可愛らしい。
和臣は視線を合わせるだけで心臓が跳ね上がる。
「緊張します? ふふ、大丈夫ですよ。私も楽しみにしてましたから」
ミケは自然に並んで歩き出した。
和臣は、彼女の足取りに合わせるので必死だった。
「和臣さん、動画すごかったです。ああいう行動って、本当に勇気がないとできないですよ」
「そ、そうですかね……」
和臣は顔が熱くなるのを感じた。
「だって、みんな言えないじゃないですか。外国人が日本を悪くしているってこと。
それをちゃんと伝えてくれた和臣さんは、ヒーローだと思います」
その言葉は、和臣が一番欲しかったものだった。
胸の奥がひと息に満たされる。
「よかったら、どこかでお茶しません?」
「え、あ、はい!もちろん」
駅前にあるチェーンのカフェに入ると、コーヒーと焼き菓子の甘い匂いが、店内を満たしている。人々のざわめき、カップの触れ合う音、スプーンがグラスに当たる高い音がぼんやりと聞こえてくる。二人は向かい合って座った。
ミケはメニューを開きながら、和臣を気遣うように目を向けた。
「和臣さん、最近投稿が荒れてるって言われて、辛かったですよね」
「えっ……なんでそれ……」
ミケは微笑んだまま。
和臣が投稿でポツリともらした弱音を、すべて読んでくれていたのだ。
「言ってくれればいいんですよ。「私、和臣さんの味方ですから。……少なくとも、あなたを笑ったりはしません」」
和臣は胸が締めつけられた。
誰にも言えなかったことが、初めて肯定された気がした。
安心感が身体の芯まで溶けていく。
「……ありがとう。僕、本当に……報われてる気がします」
「まだこれからですよ。和臣さんの活動はもっと広がるはず。応援してます。一緒に、この日本を守りましょうね」
ミケは、何の押し付けもためらいもなく言ってのけた。
その目には、疑いようのない真っ直ぐな光が宿っている。
この時、和臣は一切気づかなかった。
ミケの優しい微笑みの奥に潜む、別の目的を。
ただ、幸せな錯覚に身を委ねるだけだった。
いつも二人が行くカフェの窓際の席。少し手を伸ばせば相手に届きそうな小さな丸いテーブルを挟んで二人は座っていた。
ガラス越しの街灯が、ミケの光に透けるような輪郭を照らしている。
何度か会ううちに、和臣にとってミケは、人生で初めての「自分を肯定してくれる存在」になっていた。
ミケは一瞬、カップに視線を落とし、指先で縁を撫でるとミケは少し唇を噛むように俯いた。
「……和臣さん、実はね。ずっと言おうか迷ってたことがあって」
耳を澄ましたくなる声のトーンだった。
「……あのね。誰にも言ってないんだけど」
そう言った瞬間、ミケの表情から微笑みが消えて、目の奥が冷たい湖面のように凪いだように見えた。どこにも焦点を合わせていない、空洞のような視線。だが次の瞬間には、何事もなかったかのように、また柔らかく目を細めていた。
和臣はそれを、緊張のせいだと思い込んだ。
「私、A国の大使館で……翻訳の仕事、してるの」
「えっ、大使館で?」
思ってもみない肩書きに和臣は一瞬、身体を固くした。
ミケは続ける。
「毎日のように、日本を悪くするとしか思えない文書が来るの。本当にイヤになっちゃって…もう辞めようかなって思ってたんだけど」
そう言うと、ミケは身を乗り出し、和臣との距離を極限まで縮めた。
顔が触れそうだった。
柑橘のように軽く、けれどどこか甘い香りが、ふっと鼻をくすぐった。
「でも、私の翻訳しているものが、あなたの役に立って、日本のためになるのなら…」
その囁きは、甘く、危うかった。
「もう少しだけ、頑張ってもいいかなって…思うの」
「それって……」
和臣の喉が鳴る。
ミケは目を細めて小さく笑い、さらに言葉を重ねた。
「私が翻訳した資料を和臣さんにあげる。それを動画とかで広めてくれないかな?」
「動画で…?」
「うん。そうすればね、和臣さんの収入にもなるでしょ? なにより、A国の“真実”が世の中に広まる」
和臣は口を開きかけた。
それはつまり……
(僕にしかできない“使命”を与えられたってことか…?)
そんな高揚が胸をくすぐる。
だが、和臣がそこにごく小さな不安を覚えた瞬間、ミケはすぐに和臣を安心させるように微笑んだ。
「心配しないで。私が翻訳してる文書なんて、機密でも何でもない。法律的にもぜんぜん問題ないレベルのものだから」
そして和臣の顔から視線を外し、ふっとカップに触れた。
その仕草が妙に自然で、嘘の影はまったく見えなかった。
和臣の胸は、誇らしさと欲望が混ざり合い、熱を帯びていく。
(僕には、僕にしかできないことがある…)
そんな言葉が、静かに彼の中に巣を作りはじめていた。




