第6章 逃避行 12
言葉は、静かだった。しかし部屋の空気が確実に変わった。
ミケは動揺しなかった。ただ、まばたきを一度しただけ。」
男は、一瞬和臣の顔を見る。
和臣もミケがリム・メイリンだということを知っているので、今度は全く取り乱すことはなかった。
しばらくの沈黙。
男は、視線をほんのわずかにミケから逸らしてから言った。
「……あなたの祖国は」
一瞬、言葉を選ぶ間。
「まだ、あなたを見捨てたわけではないようですよ」
その言葉は、柔らかく落とされた。だが、意味は重かった。
男は、視線を和臣に移す。
「岡田さん……あなたは、彼女の本当の名前が“リム・メイリン”だと、すでに知っていたのですね?」
男の声は丁寧だったが、その奥にかすかな驚きがあった。
和臣は、質問の意図がすぐにはつかめず、わずかにまばたきをした。
「……ええ。途中で」
その返答を聞いた瞬間、男の表情が一瞬固まった。
男は和臣が何も知らされないままアメリカまで来たのだと思っていた。
そんな“想定外”の色が、彼の目に浮かんだが、すぐに感情を消し、淡々と続けた。
「なるほど。……では状況は理解しているわけですね。ですが、岡田さん。あなたは彼女とは立場が違う。単に巻き込まれただけですから、拘束の対象ではありません。もちろん、保護の対象にも該当しない」
一語ずつ、逃げ場を塞ぐように置かれていく。
「ですが、我々はあなた方をすぐに切り離すつもりもない。この先どうするかは、岡田さん、あなたが自分で選択してください。……もちろん日本に帰国する道も、選べます」
その言葉を聞いた瞬間、和臣は胸の奥がふっと揺らぐのを感じた。
日本に帰れる。
ほんの数秒、その甘い言葉に手を伸ばしかける自分がいた。
その隣でミケは、静かに息を吸っただけで何も言わない。
和臣は、視界の端でミケの指先がわずかに震えているのを見た。その小さな震えが、彼の迷いを急速に締めつけた。
結局、彼は何も答えられないまま、男との会話はそこで終わった。
部屋のドアが開き、男を先頭に、二人は廊下へ出た。
途端に、空気の温度がひやりと変わった。蛍光灯の白い光が、磨かれた床に冷たい直線の影を落としている。
その影の中で、和臣の気持ちはまだ形を持たず、揺れていた。
冷たく光る廊下を男は振り向かずに歩いた。
足音は、ほとんど響かない。
通路は二度、折れ曲がった。
途中、窓のような小さなガラス越しに、手荷物受け取り場の一角が見えた。
人が多い。明るい。普通の空港の景色が見える。
同じ建物の中でほんの数メートルしか離れていないのに、世界は分けられていた。
最後の扉は、重たそうに見えたが、男が軽く押しただけで、静かに開いた。
外気が流れ込んでくる。
冷たい。しかも、湿り気のない冷たさだ。
そこは、一般利用者はおろか空港職員でもめったに通ることのない場所だった。照明は少なく、アスファルトが黒く光っている。
遠くからジェットエンジンの低い唸りが、地面を伝ってくる。
駐機場の端の人気のない一角。
そこに止まっていたのは、シボレーの黒いバンだった。
装飾のない車体。ガラスは濃くスモークがかかっていて、中は見えない。
男はドアを開けなかった。
代わりに、軽く顎で示した。
「どうぞ」
和臣は一瞬、足を止めかけた。
ミケは全く迷わなかった。ドアに手をかけ、音を立てないように開ける。
車内に明かりは全く無く、とても暗かった。座席の輪郭だけがうっすら見える。
和臣は、ずっと外を見ていた。
巨大な機体の影。点のような誘導灯。遠くで動く小さな車。
空港は、眠らない都市のように活動し続けている。
シートは柔らかすぎも硬すぎもしない。だが、体がうまく馴染まない。
ミケが隣に座る。
ドアが静かに閉まる。「ガチャ」という音はなかった。
ただ「遮断された」という感覚だけが残った。
バンが、滑るように動き出す。
窓の外で、光が横に流れる。遠ざかる飛行機。遠ざかるターミナル。
どこかに連れていかれている。それが正確な表現だった。だが、不思議と恐怖は、なかった。
和臣は、ミケに小さく尋ねた。
「……どこへ行くんだと思う?」
ミケは、すぐには答えなかった。
窓の外を見つめたまま、静かに息を吸う。
「……たぶん」
「“守られる側”の場所」
和臣は、その言葉の意味を理解できなかった。だが、胸の奥が少しだけ静かになった気がした。
バンは、静かに加速した。
夜の街の光の中へ……確かに、紛れていった。
ここで、第6章は終わります。
第7章「緊張の海」は全く違う場面になります。
1月8日の夜からはじまります。




