第6章 逃避行 11
飛行機が着陸した短い衝撃が伝わると、和臣の胸の奥で張りつめていた何かが、かすかにほどけた。
滑走路から誘導路に移動し、巨大な空港内をゆっくり進み始めると、機内に安堵のざわめきが広がった。窓の外には、雨に濡れたアスファルト。
無数の誘導灯が闇に青白い線を引き、巨大なターミナルが静かに息づいていた。
ここはアメリカだ……。
和臣は頭で理解していても、まだ感覚が追いつかない。
機体が停止し、ベルトサインが消えたあとも、和臣はしばらく動けなかった。
脚が、少し重たい。
隣に座るミケを見ると彼女はじっと外を見ていた。
「……着いたね」
和臣がそう言うと、ミケは小さくうなずいて和臣のほうを見た。
表情は変わらない。だが、瞬きの間隔だけは僅かに短いような気がした。
ドアが開き、通路に人が流れ始める。
荷棚の音、スーツケースの擦れる音、英語の会話、笑い声。そのすべてが薄い膜を通して聞こえるように遠い。
ボーディングブリッジに一歩踏みだすと、一瞬だけ外の冷気が顔に触れる。
窓から見えていた雨の気配は、厚い壁に遮られて見えなくなる。
ミケは和臣の一歩前を歩いていた。なぜか、その背中が、不思議と小さく見えた。
和臣は、ゆっくりと息を吸い込んだ。乾いた空港の空気が、肺の奥に入ってくる。
そうして、ようやく実感した。
自分たちは、アメリカに降り立ったのだと。
ここまで来れば安全なんだと頭ではわかっていても、まだ本能が「終わっていない」と言い張るようだった。
天井は低くなり、照明は均一な白色に変わる。
壁際には非常口のサインと、色褪せた広告パネル。
足音がやけに大きく響く。
“到着”というより、“内部に取り込まれる”感覚に近かった。そのまま人の流れが、自然と一方向へと引き寄せられていく。
天井から吊られた小さな案内板には、
Immigration
とだけ書かれている。
和臣は、その文字を見つめながら歩いていた。
ミケは半歩前を歩いている。
だが、通路の途中で突然、制服姿の女性が一歩横に出た。
「……こちらへ」
声は低く、穏やかだった。命令口調でもない。だが、二人からの拒否は認めない声だった。
和臣が言葉を発するより早く、彼女は一瞬だけ、胸元のバッジを見せた。
所属は読めなかった。だが、「航空会社の職員ではない」ということだけは分かった。
「すぐに終わります」
それだけ言って、踵を返す。ミケは何も言わず、そちらへ歩き出した。
和臣も一拍遅れて、後に続く。
人の流れから、静かに弾き出される感覚。
女性職員が自動ドアにIDカードをかざすとドアが開いた。その先の通路は、明らかに雰囲気が違っていた。床の色が変わり、天井も少し低い。そして空港の雑踏は耳に入らず代わって空調の音が強くなる。
案内や公告の看板もない。無機質なただの通路。
通路の先にあった扉まで案内すると、女性職員は短く言った。
「こちらで、少しお待ちください」
部屋は、狭く窓もない。
金属製の机と椅子が四脚。壁の隅には小型のカメラがそれとはっきりわかるように天井から下がっている。
白い壁の一部だけが、後から塗り直したように、わずかに色が違う。
ドアが閉められたが、鍵の音はしなかった。
和臣は、すぐには座れなかった。落ち着かずに視線があちこちに行ってしまう。
ここは……取調室だ。そう理解したとき、喉の奥が渇いた。
思わず、息を吸う。だが、空気は重たい。
しばらくウロウロして、ようやく椅子に腰を下ろすと、
膝に置いた自分の手が、わずかに震えているのが見えた。
「……ねえ」
知らないうちに、声が出ていた。
「これ……大丈夫なのかな」
ずっと座っていたミケは、部屋全体を一度だけ見回してから言った。
「大丈夫だと思う」
声は落ち着いている。
それが逆に、和臣の不安を意識させる。
「……わかるの?」
ミケは少し間を置いた。
「……拘束するつもりなら、もっと手荒な方法を使うと思うわ」
と、それだけ答えた。
それでも和臣は、少しだけ息を整えることができた。
時間が、曖昧になる。時計もスマートフォンの電波もない。
空調の低い音だけが部屋に流れ続けている。
やがて、誰かが歩いてくる気配がした。ノックもなく、扉が静かに開く。
そこには灰色のスーツの男が立っていた。
男はドアを閉めなかった。
半分だけ開けたまま、部屋の空気と廊下の気配を混ぜるように立っていた。
そして、ミケに向けて視線を滑らせたあと、ゆっくりと、確かめるように。
「……倉橋美結さん」とミケの名を呼んだ。そのあと、少し間をおいてから、
「いや……」
男の視線が、微かに鋭くなる。
「リム・メイリン大尉」




