第6章 逃避行 10
出発ロビーを歩く足音がやけに大きく響く。行き交う乗客、各国の言語、監視する視線。和臣は心臓の音が聞こえそうだった。
「大丈夫」
ミケが囁いた。
「何が起きても私が全部……通すから」
その声は、さっきまでのミケとは違うプロの声だった。
チェックインカウンター。
パスポートを手渡す時のミケの動きは、
“訓練された人間の動き”そのものだった。
無駄がなく、隙がなく、
係員の目の動きを読み、最適な角度で笑みを返す。
和臣は見てはいけないものを見ている気がした。
(……この人、本当に……普通じゃない)
そしてそれは同時に、
ミケがどれほど自分のために全力で“盾”になってくれているかの証拠でもあった。
荷物検査やパスポート審査に並んでいる間、彼女は客の列の隙間にある監視カメラの向きまで無意識に見ている。
和臣は、小さく震えながらその姿を見つめた。
(……こんなふうに……守ってくれていたのか)
その思いは、恐怖でもあり、そして静かで重い感謝でもあった。
出国スタンプが押される瞬間、ミケはほんの一瞬だけ息を止めた。
そして……
問題なく通過。
「行きましょ」
ミケは微笑んだ。
その笑顔は、和臣が知ったばかりの“本当のミケ”だった。
離陸後、機内の照明が落ち、穏やかな暗闇がふたりを包む。
エンジンの低い振動が足元から伝わってくる。
和臣は窓側の席で外を見つめていた。
ミケは隣でブランケットにくるまって、小さく深呼吸している。
しばらく沈黙が続いた。やがて、和臣がゆっくりと、恐れるように、ためらうように、
ミケのほうへ手を動かした。
触れるか触れないかの距離。
ミケは気づいていた。
でも、すぐには手を伸ばさなかった。
そして……
和臣の指先がそっと触れた瞬間。
ミケは静かに、指を絡め返した。
強く握らない。
弱すぎもしない。
「……和臣さん」
ミケが囁く。
「うん」
「ありがとう。一緒に来てくれて」
和臣は視線を窓の外に落としながら言った。
「ミケが……一緒に来てほしいって言ったからだよ」
ミケは目を伏せ、唇を震わせた。
言いたい言葉はあった。だけど言えなかった。
その代わり……
彼女は握った手を、ほんの少しだけ強くした。
機体は雲の上へ上がり、
朝の光が銀色の翼を照らしていた。
早朝の英国の空気は薄く冷たい。スリランカ航空の飛行機から降りた瞬間、和臣は舌の上に金属のような冷気を感じた。
周囲は観光客とビジネスマンで混雑している。
この雑踏が逆に、二人を安全にしてくれるように思えた。
ミケはここでも周囲を警戒しながら歩いていたが、その肩の力はスリランカの時より明らかに抜けていた。
「もう……誰も、私たちを追ってない」
そう確認するように言った後、ミケは小さく吐息をもらした。
乗り継ぎのゲートで、アメリカン航空の搭乗券を受け取る。
ここまで来ると、”B”の手はもう届かない。
しかし和臣は、まだ完全に信じきれず、胸の鼓動が早まっていた。
広いターミナルで数時間の待ち時間が生まれた。
ミケは温かい紅茶を買って和臣の前に置いた。
「飲んで。落ち着くよ」
「……ありがとう。なんか、甘い匂いするね」
「スリランカの紅茶より、ずっと軽い味だよ」
二人は、初めて“普通の旅行者”みたいな会話をした。
離陸した機体が上空で安定すると、
ミケは大きく息を吐いた。
ここから先は、ほとんど完全に安全圏だ。
「……あと八時間くらいだってさ」
和臣の言葉に、ミケは小さく笑った。
「長いね。でも、短くて寝不足になるよりはマシかな」
機内は薄暗く、
窓の外には終わりのない大西洋の雲が続いている。
シートに備え付けられたモニターでは古い映画が流れ、
離れた席では子どもの泣き声がする。
平凡な“機内の生活音”が、
二人にとっては信じられないほど穏やかだった。
やがて和臣の肩が徐々に落ち始める。
眠気に抗えず、そのままウトウトと船をこぎ始めた。
ミケはそんな和臣の頭が自分の肩に触れた瞬間、
一瞬だけ迷ったようにまぶたを細めたが、
結局そのまま黙って身を預けさせた。
(ここまで来たんだ……)
ミケは窓の外に広がる雲を見つめ、少しだけ目を閉じた。
機体が着陸した瞬間、和臣は胸の奥で何かがほどける音を聞いた気がした。




