第6章 逃避行 9
早朝のホテル前。
街はすでに熱気を含み、車のクラクションがあちこちで鳴り始めていた。
そこへ……「おーい! 二人ともー! こっちこっち!」
軽い声とともに、古いトヨタのワゴンの横で、ヨッチャンが手を振っていた。
「おはよー! えっ、今日もう帰っちゃうの?
せっかく来たのに~! カンディとか象の孤児院とか、いろいろ案内できたのに!」
ヨッチャンは何も知らない。
スリランカでのドタバタも、追手の存在も、命の危険も。
ただの明るい、日本人ガイド。
ミケはその姿にわずかに救われたような笑みを見せた。
「……どうしてヨッチャンが?」
「え? チャンダナさんから昨日の夜LINE来たよ?
“空港へ送ってやってくれ”って」
ヨッチャンはへらへら笑いながら、荷物を積み込む。
「ほんっと忙しいねぇ、チャンダナさんも。大変だよ、あの人も!」
和臣とミケは、一瞬だけ無言になった。
(……たぶん、チャンダナが“わざと”ヨッチャンに頼んだ)
(ヨッチャンなら追跡者がいても絶対に怪しまない、か……)
そうミケは悟った。
「じゃ、空港行くよー。渋滞する前に出なきゃ!」
ヨッチャンは自分でハンドルを握り、軽快に言った。
「いやー、でも寂しいなぁ。もう帰っちゃうなんて!」
その天真爛漫さは、殺気や陰謀の入り混じる世界を一瞬忘れさせるほど眩しかった。
和臣は、小さく息をついた。
「……ヨッチャンさん。ありがとうございます」
「え? なんで敬語? やめよやめよ! じゃあ行きますよー!空港に、しゅっぱーつ!」
朝の光を受けながら車が走り出した。
渋滞することなく高速を走り、車がバンダラナイケ国際空港に滑り込むと、朝日がガラス張りのターミナルを金色に染めていた。
「はい! 到着~!」
ヨッチャンはボンネットを軽く叩き、振り返って二人に笑った。
「なんか急だったねぇ……もう帰っちゃうんだもんなぁ」
和臣は胸が締めつけられるような思いになった。
ミケは、笑顔のまま何かをこらえている。
「ありがとう、ヨッチャン。」
「いやいや~、こっちも助かるよ!」
ミケと和臣は、一瞬だけ顔を見合わせた。
「じゃあさ、また来てよ。今度はちゃんと観光案内するからさ!」
ヨッチャンは太陽みたいな笑顔で言った。
「……うん。絶対に」
ミケがそう返す。その声は本当に優しかった。
「二人とも元気でね! 気をつけて帰るんだよー!」
ヨッチャンは手を振り続けた。
見えなくなるまで振ってくれていた。
彼が何も知らず、ただ善意だけを置いていくことが、ミケの胸に深く刺さった。
(……また、必ず会いたい)
そんな感情が、胸の奥で静かに息をする。




