第6章 逃避行 8
港の入り口に建つホテルは、思ったよりも静かだった。この古いホテルの玄関口には、かつてコロンボが華やかだった名残の真鍮のドアノブが鈍く光っている。かつては格式のあったであろう建物の廊下は、今はかすかに軋み、壁の装飾には細かなひび割れが走っている。
重たい鍵を差し込み、扉を開けると、部屋の空気は少し湿って、やわらかかった。
高い天井、古びた木の家具。
長い時間だけが染みついたような空間。
ベッドは一つだけ。そこに二人のキャリーケースがすでに置いてあった。
ミケは、静かに靴を脱いで、ベッドの端に腰を下ろした。
その動きは、いつもよりずっと遅くて、静かだった。
伸びた背筋が、ふっとほどける。
「……今日は、長かったね」
和臣に向けたというより、
彼女自身の中に呟いたようだった。
和臣はすぐに答えなかった。
ただ、少しだけ声の調子を落として言う。
「……横になったらいい。体、きついんじゃない?」
ただ……自然な気遣いだった。
ミケは小さく笑った。
「……うん」
それだけ答えて、ベッドに横になる。和臣のほうを一度だけ見たが、それは安心しきったような目だった。
まぶたが落ちるのは、あっという間だった。呼吸はすぐに深く、穏やかになる。彼女の寝顔は、驚くほど柔らかかった。
緊張も、仮面も、嘘もなかった。
ただ……眠っているひとりの女性。和臣は息を止めたように、それを見つめていた。
(……こんな顔で眠るんだな)
今まで見たことのない表情だった。そこには強くあろうとする眼差しも、覚悟に身を固めた口元も見えなかった。
やわらかく呼吸をする唇。かすかに頬に落ちる髪。まつ毛の影。
和臣は、ふと気づく。
自分はずっと守られてきたんだということに。
和臣は、毛布をそっと引き寄せた。
起こさないように、静かに肩口までかける。
ミケは目を覚まさなかった。ただ、眠ったまま、無意識に毛布に指を絡める。
どこか、子どものような仕草だった。
胸が締めつけられた。
この寝顔を見ているだけで、何もかもどうでもよくなりそうになる。
彼女から逃げようと思えば、この大都市ならいくらでも逃げられそうだった。そう遠くないところには、日本大使館もあるだろう。
窓の外には、港の灯りと車のテールライトが続いている。
それでも……
和臣の足は、ドアにも窓にも向かなかった。
ただ、その寝息のそばにいた。
ずっと。
ミケは、深い眠りの中で一度だけ小さく身じろぎした。髪が頬にかかり、呼吸がほんの少し乱れる。
かすれた音が、喉の奥でほどけた。
「……だいじょ……ぶ……」
夢の中の誰かに向けた言葉のようだった。
和臣は、思わず息を止めた。
彼女の指が、毛布の端を探るように動く。指先がさまよい、やがて布を見つけて、弱く握った。その力は、思いのほか繊細だった。
胸元が小さく上下している。
息を吸うたびに、かすかな音が唇から漏れた。
まつ毛が、わずかに震えた。夢を見ているのかもしれない。
指先が、ほんのかすかに動くたび、小さな音がベッドに伝わる。
和臣は、無意識に自分の手を握りしめていた。触れてしまわないように……。
触れた瞬間、何かが壊れてしまうような気がした。
和臣は、いつの間にか椅子の背にもたれて目を閉じていた。肘掛けに腕を預けたまま、体の力だけが、静かに抜け落ちている。
眠ろうとしたわけではなかったが、気が付くと眠りに引き込まれていた。
少しだけ、夢を見た気がした。
内容は覚えていない。
ただ……誰かがそばにいる感覚だけが、残っていた。
彼もまた、完全に無防備だった。
外では、遠くで最初のクラクションが鳴り、鳥の声が、かすかに混じる。
ミケは、わずかな光の変化で目を覚ました。覚醒はゆっくりだった。
夢と現実の境目がまだ曖昧で、天井の染みがぼんやりと視界に滲んでいる。
(……朝……?)
息を吸う。湿った古いカーテンの匂いが入ってくる。木製ベッドの軋む感触。
そして……
静かな気配に気づいて、視線を少しだけ横に動かす。
そこには椅子に座ったまま、眠っている和臣がいた。
頭が少し前に傾き、無防備に目を閉じ、口元もどこか力が抜けたままだった。
(……この人……)
胸の奥が、かすかに熱くなる。
戸惑いも、警戒も、すべてほどけきった顔。 ミケは、音を立てないように上体を起こした。
ベッドのスプリングが、微かに鳴る。
和臣は、起きなかった。少しだけ、息に変化があっただけ。
ミケはそっと立ち上がり、床に足をつける。床の冷たい感触が伝わってきた。
一瞬、ためらってから……毛布をそっと手に取って、眠っている和臣の肩に、起こさないように静かにかける。
和臣の眉が微かに動いたが、それでも眠りは覚めなかった。
ミケは、それを見て、ほんの小さく息を吐いた。
誰に見せるでもない、ほとんど声にもならないような吐息。
「……ありがとう」
音にはならなかったが、彼女の唇は確かに、そう動いていた。
ゆっくりと窓際まで歩き、カーテンの隙間から外を見た。
コロンボの朝が、動き始めた。
車の音、遠くの話し声、眠りから覚めていく都市の気配。
静かな部屋のなかで、ミケは、椅子に腰を下ろし、彼が目を覚ますのをただ待つことにした。




