第6章 逃避行 7
その言い方は冗談めいていたが、目だけは笑っていなかった。
ミケは、ハッと胸の奥がひやりと揺れるのを感じた。
“もっと上”と聞いた瞬間、ひとりの顔が鮮やかに脳裏に浮かんだのだ。
情報部門に配属されたばかりの頃、右も左もわからない自分に手取り足取り仕事を叩き込んでくれた上官の女性……アイシャ・ラーマン。
鋭い目つきの裏に、部下を守るような温かさを秘めた人だった。
アイシャは常に、
「同じに見える物でも、角度を変えて見れば全く違って見える。どんなことでも常に別の視点から見て、自分で考えないとだめよ」と言っていて、自身の執務室にも角度が変わると描かれているものが違って見える、「騙し絵」を飾っていた。
彼女は数年前、大統領直属の安全保障室長に抜擢され、いまや大統領の側近中の側近。
現場の動きを逐一つかめる立場にある人物だ。
アイシャなら……ミケの任務が歪み始めた時点で、何かを察していたとしてもおかしくなかった。
(まさか……でも、あの人なら)
胸の内で名前を呼ぶと、不思議と気持ちが落ち着いた。
チャンダナはミケの表情を横目で盗み見て、にやりと笑った。
「心当たりがある顔だね。まあ、君は現場のエリートだからな。上の連中が気にかけてても不思議じゃないさ」
軽く言い放ちながら、彼の声にはどこか安心させる響きがあった。
チャンダナは少しだけ目を細め、新聞を畳むと立ち上がった。
「そろそろ行くよ。明日の朝、ホテルから空港までタクシーを用意してある」チャンダナは2冊の日本のパスポートとロンドンへの航空券を出した。
「あと、これが君たちのパスポートだ。入国した時と同じパスポートを渡せ、というのも上からの指示だ。理由は俺にはわからない」
その時、ミケは一歩、チャンダナに近づいた。その肩越しに覗いた昼の光が、彼女の瞳の奥で鋭く光った。
「……あなた」
「ん?」
「あの時テーブルにあった“書類”……」
チャンダナの表情が一瞬だけ固まった。
ミケの声は、押し殺した怒りと自尊心の痛みに震えていた。
「あれ、わざとやったでしょう?」
チャンダナはフンと鼻を鳴らし、乾いた笑みを浮かべた。
「そんなわけ……いや、うん……まあ、ちょっとミスっただけだよ。ほら、俺ってドジだからさ」
ミケはじっと彼を見つめる。
嘘をつく相手を見抜くプロの目……その鋭さは、和臣には見えない角度で光っていた。
「“ドジ”で済むミスじゃないでしょう。あれで、和臣さんは……」
視線が後ろの和臣に流れる。
和臣は俯いたまま微動だにしなかった。
チャンダナは肩を竦め、手を合わせるように軽く拝んだ。
「ごめんよ。でも……君ら、あのままじゃ前に進めなかったと思うんだ」
「……どういう意味?」
「和臣くんは、君の“素性を知らないという、不安定な安心感”にしがみついてた。君は君で、“真実を言えば壊れる”と思い込んでた。それじゃ……いつまで経っても、一緒に逃げるなんてことはできない。互いに全てを信じ合えないバディは生き残れない」
ミケは息を呑んだ。
正確に、痛いところを突かれたのだ。
「だからって……あんな形でバラすなんて……!」
「うん。でも、あれで君は腹ぁ括ったろ?」
チャンダナの声は冗談めかしているのに、目だけが妙に真剣だった。
ミケは唇を噛み、怒りを飲み込むように目を伏せる。
「……あなたって、本当に性格が悪い」
「褒め言葉として受け取っておくよ」
最後に手を軽く振り、チャンダナは午後の雑踏の中へと溶け込むように姿を消した。
ミケと和臣は、それぞれが持っているカップを見つめた。
ミルクティーの湯気がゆっくりと上がり、
街の喧騒に混じって揺れていた。
……これが、チャンダナとの最後の別れだった。




