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騙し絵  作者: 星 則光
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第6章 逃避行 6

 朝八時。

 朝食の後、バンダラの家を出ると、湿った風が肌をなで、遠くから波が寄せて返す低い音が響いてくる。海の匂いに、シナモンの香りがほんのわずか混じっていた。

 ほとんど眠っていない和臣は、ぼんやりとしながら歩いていた。紅茶の温かさだけが身体の内側に残っているような気がした。


 ミケは髪をひとつにまとめながら、ゆっくりと息を吸う。

「……海の匂いだね」

 和臣は頷いたが、声はまだうまく出なかった。

 港へ向かう道には、すでに魚を載せた小さなトラックが何台も走り、港の近くの露店では、氷を敷いた台の上に魚が並びはじめている。港町特有の、湿った喧騒と生気に満ちた匂い。

 漁師が大声で指示を出し、海鳥たちが頭上で鳴き、朝日に光る海面が揺れていた。


 観光客の姿はまだほとんどなく、街はゆっくりと動き始めたばかりだった。

 ミケがふと小さく言った。

「きれい……本当に、昨日とは別の世界みたい」

 和臣はその言葉に、胸の奥がじんとした。

 たった数時間前まで死と隣り合わせだったのが嘘のようだ。


 ゴール市内のバスターミナルには、すでに多くのバスでごった返していた。

「コロンボ」「マータラ」「カンディ」……色褪せた行き先表示板。

 ポンッという圧縮空気の音と共にバスが発車し、別のバスがギリギリの間隔で滑り込んでくる。

「ここから、コロンボ行きに乗るのよ」


 ミケが、バスの一台を指さす。

 白い車体に青いラインが入った、少し古びた長距離バスだ。

 北へ向かうバスに乗り、数時間。

 コロンボに入るころには、街は完全に昼の気配を帯びていた。

 バスがフォート地区近くのターミナルに着くと、クラクションと人の声と排気ガスが一斉に押し寄せてくる。


 高層ビルと古い西洋式の建物が混ざり合った街並み。通りを行き交うトゥクトゥクの青や赤が、熱気の中でぎらぎらと光っていた。 車のクラクションが交差点に響き、人の波が途切れることなく続く。

 露店のスパイスの匂い、焼きたてのロティ、フライパンの油が跳ねる音。

 雑踏のざわめきに包まれながら、二人は短いメッセージを頼りに街中の小さなカフェへ向かった。


 看板の下をくぐると、そこに、チャンダナがいた。

 白いシャツにカジュアルなスラックス。昨日の深夜とは違い、まるで何事もなかったかのように落ち着いた様子で、石造りの壁に寄りかかりながら新聞をめくっていた。

「おつかれさん。二人とも無事でよかった」

 ミケと和臣は思わず息をついた。


 チャンダナは軽く笑いながら、三人分のミルクティーを注文した。

「俺はほんの少ししかいられない。ここから先は、君たちだけで進むんだ」

 そう言うチャンダナの声は穏やかだが、目の奥には昨夜の緊張の余韻がわずかに残っていた。

「本当に……ありがとう」

 ミケが低く言った。


「礼なんていらないさ。君たちが生きてくれるなら、それでいい。それがオレの任務さ」

「え?なんで?」ミケは不思議そうに尋ねた。

 チャンダナは、ティーカップを指先でくるりと回しながら、軽く笑った。

「だいたい、俺を雇ったのは“B”って奴じゃない。あいつはただの窓口だよ。たぶん、本当の依頼主はもっと上……俺の見立てじゃ、かなり上の人物だ。俺に回ってきた本当の指示はひとつだけ……“Bの裏をかいて、明日のイギリス行きの便に君たちを乗せろ”って。それだけだ」



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