第6章 逃避行 5
バンダラの車がゴールの街に入るころには、空はうっすらと白み始めていた。
海からの湿った風が窓を揺らし、遠くで波が崩れる低い音がかすかに聞こえる。
バンダラは、何も言わず一軒の家の前で車を止めた。
白壁とオレンジ色の屋根。朝焼けの光が淡く屋根瓦を照らしている。
「二人とも、ここ。うちです。降りてください」
その声はとても穏やかで、
ついさっきまで“命からがら逃げていた”とは思えないほど日常的だった。
和臣はゴミ袋の下から這い出るように外へ降りた。
ミケも髪を軽く払って降り立つ。
二人とも泥の匂いが薄く残っていて、緊張の余韻が肌に貼り付いたままだ。
「ちょっと待っててくださいね」
バンダラが扉を開けて声をかけると、
中からスリランカの女性がぱたぱたと足音を立てて出てきた。
丸顔で、黒い髪をきれいに束ねた、
柔らかい雰囲気の小柄な女性だった。
「あなた、この時間になに?……まあ、お客さん?」
驚くでもなく、迷うでもなく、ごく自然に二人を見つめ、ふっと微笑んだ。
「さあ、中に入って。立ってないで」
やわらかな英語に、ところどころシンハラ語の響きが混じる。
遠慮しようとして、和臣は口を開きかけたが、
出てきたのは息なのか声なのかわからない弱い音だけだった。
ミケがそっと和臣の腕を掴んだ。
「……ありがとう、ございます」
和臣の声は震えていた。
それでも奥さんは一切気に留めず、台所へ行くと、ケトルを火にかける軽やかな音が台所から響いた。
リビングは、どこか甘い香りが漂っている。
壁には家族写真と、花模様の立体的な刺繍の布飾りがいくつも掛けられていた。
「あなたたち、すごく疲れてますね」
バンダラの奥さんは、ミケと和臣をソファに座らせながら、優しく言った。
しばらくして、湯気の立つお茶が、白い陶器のカップに注がれて運ばれてきた。
「これ、サマハンですよ。飲むと落ち着きます」
サマハン……スリランカのスパイスティー。
生姜やスパイスの香りが立ちのぼり、鼻の奥まで温かくなるような匂いがふんわりと広がる。
「どうぞ。どれだけ疲れてるかは聞きませんから。何かあったんでしょう。でも、ここは安全です」
その一言が、和臣の胸の深いところにゆっくり沈んでいく。
和臣はカップを両手で包み込み、一口すすった瞬間、喉の奥が熱く締めつけられて、思わず泣きそうになった。
隣を見ると、ミケも静かに息をつき、カップを見つめながら目を閉じていた。
「和臣さん。もう大丈夫だよ。ここ、すごくいい匂いがする」
ミケの声は小さいが、はっきりしていた。
二人とも、ようやく少しだけ安心できる場所に着いたのだった。
温かいスパイスティーの湯気が、夜の闇からようやく解放された身体全体に染み渡っていく。
……この小さな家で、ほんの一時だけ、二人は安全だった。
バンダラの奥さんが手際よく朝食の準備をしている、テーブルの上にはお椀形をした米粉クレープのような「ホッパー」と豆のカレー、それにココナッツサンボルの小皿と甘い紅茶が並んでいた。
窓の外には、ゴールの朝の空気が広がっている。
白い壁の家々の間を、白い制服姿の子どもたちがバックパックを揺らしながら駆けていく。
遠くには、旧市街の城壁、その向こうに、朝日にきらめく海。
屋根の上ではカラスが鳴き、どこかの家の庭からは、洗濯物を干す音がしていた。




