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騙し絵  作者: 星 則光
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第6章 逃避行 1

「大丈夫、大丈夫。ちょっと休んでもらうだけだよ」

 チャンダナは軽い声を保ったまま別室のドアを開ける。テーブルと椅子が二つだけのベッドもない空き部屋。逃げ道のない、窓の細い部屋。和臣は気づいた瞬間、また暴れた。

「いやだ!! ここに閉じ込める気ですか!! やだ……僕……殺される……!!」

「ほら、座って。深呼吸。できる?」

 チャンダナは優しく言うが、その手は和臣の肩をしっかり押さえたままだ。和臣の足は震え続け、とうとう床に崩れ落ちた。

「……助けて……だれか……たすけ……」

 その声は、もう力がなかった。


 チャンダナは和臣の手首をゆっくり掴み、逃走防止のための簡易バンドを取り出す。

「ごめんね……」

 パチン。軽い音で固定される。チャンダナを見上げる和臣の目から、どっと涙があふれた。

「どうして……どうしてこんなことに……」

 チャンダナは何も答えなかった。

 ただ、部屋の扉を閉める前に小さく呟く。

「君を守るためだよ。こんな形になって、悪いけどね」


 その言葉は、和臣の耳に空しく届いただけだった。別室のドアが閉まる音が、ミケの胸に重く響いた。そして和臣のすすり泣くかすかな声が、廊下越しずっと聞こえていた。


 それから時間がどれくらい経ったのか、和臣にはわからなかった。別室の薄暗い空気は重く、泣き疲れたせいか、胸にも頭にも力が入らない。

 手首を固定するバンドは全く痛くはないが、締め付けられている感覚そのものが生きた心を削ってくる。どこにも逃げ場はない。叫んでも誰も来ない。いくら暴れても無駄だと……ようやく理解した。

(……もう、逃げられないんだ)

 悟った瞬間、和臣の身体から抵抗の熱が抜け落ちた。

 ただ座り込み、じっと扉を見つめる。


 そのときふんわりと漂ってきたのは、スパイスの香り。カレーだった。

 自分の空腹を自覚した瞬間、胃がきゅっと縮む。

(僕も食べられる……のか……? いや……食べたところで……どうなるんだ……?)

 疑いと恐怖で身体は固まったまま。でも、空腹はごまかせない。

 “生きたい”という小さな本能だけが、胸の内側でしつこく鳴いていた。


 その時、扉がノックもなく開いた。

「入るよー」

 チャンダナの軽い声。その明るさが、この状況では逆に不気味に聞こえる。

 彼はカレー皿をひとつ持って入ってきた。


 ミケの姿はない。

「お待たせ。作ってきたよ」

 部屋の隅でうずくまっている和臣を見ると、チャンダナは「ああ……」と表情をやわらげた。

「怖かったよね。でも、食べなよ。腹が減ってるほうが、余計に悪いほうに考えちゃう」

 チャンダナは、和臣の拘束された手首を見て、少し首をかしげた。

「これじゃ食べられないよな。……ほら、外すぞ」

 そう言って、バンドを外した。


 逃げようと思えば逃げられる……だが逃げなかった。逃げられなかった。恐怖が、手足より先に心を縛っている。

 チャンダナはゆっくり和臣の前にカレー皿を置いた。

「ほら、食べな」

 和臣は震える手でスプーンを取ろうとしたが……取れない。恐怖で、手指が動かない。

 その様子を見て、チャンダナはふっと息を吐き、ほんの少しだけ声の調子を落とした。


「和臣くん」

 名前を呼ばれて、和臣は顔を上げる。チャンダナの瞳は、今まででいちばん“普通の大人”の目をしていた。

「君がこれからどうなるか……それを決める鍵はひとつだ」

「……鍵……?」

「うん」

 チャンダナは、カレー皿を押しやり、真正面から和臣を見た。

「生きたかったら……彼女を信じろ」


 和臣の呼吸が止まった。

 チャンダナの声は、いつもの軽さではなく、低く、静かで、揺るぎなかった。

「いいかい和臣くん。この状況で君を救えるのは……俺でもないし、この国でもない、ましてや君の国でもない」チャンダナはゆっくりと、言葉を落としていく。

「……彼女だ。あの子は……たくさん嘘もついてきたし、まだ秘密も多い。でもね……“君のためだけについた嘘”がいくつもある」


 和臣は目を見開いた。

「彼女は……君を守るために、ここまで来た。それは本当だよ。だから……

 生きたかったら、彼女を信じろ。それだけで道が開く。」

 和臣の喉がかすかに動いた、しかし言葉は出ない。ただ、その言葉は心の奥へ静かに沈んでいった。

(ミケさんが……僕を……? でも……いままでが全部嘘で……僕は……どうすれば……)


 チャンダナは立ち上がる前に、和臣の頭の高さまで屈んで、ぽん、と肩に触れた。

「怖いのは当然だよ。でも、君はひとりじゃない。それを信じるかどうかは……君次第だ」それだけ言うと、チャンダナは静かに扉へ向かって歩いた。

「カレー、冷める前に食べてな」扉が閉まり、和臣はまたひとりになった。


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