第5章 裏切り 4
和臣は紙を見つめ、涙ではなく絶望のように静かに呟いた。
「じゃあ……僕が信じたのは……初めから全部……ウソ……?」
「違うの!!」
ミケの声が思わず張り裂けた。
和臣は動きを止める。
ミケは胸に手を当て、必死に息を整えた。
「全部が……嘘じゃない。和臣さんと話したことも……一緒にいた時間も……それは、ぜんぶ……」
和臣は視線を落とし、力なく笑った。
「だったら……どうして“本当の名前”も教えてくれなかったんですか。どうして偽物の名前で、僕を騙したんですか」
ミケは、何も言えなかった。
“恋を自覚した直後に、正体が暴かれる”
これ以上ないほど残酷なタイミングだった。
チャンダナは顔をしかめ、わざとらしいため息をつく。
「和臣くん……悪いけど、ミケは……」
ミケが静かに手を上げて制した。
「……私が話します」
彼女は、和臣のほうへ一歩だけ進んだ。
けれど、決して近づきすぎない距離で止まる。
「倉橋美結は……“カバー(偽名)”なの。
私は……“リム・メイリン”。
A国の……軍の情報部員……」
和臣は、呼吸を忘れたままミケを見つめていた。
その話は信じたくない。受け止めたくない。
でも、目の前にいるミケの存在そのものは“嘘ではない”ことも分かる。
握っていた手から力が抜け、持っていた紙が、ぱさっと落ちた。
「……そんな……」
和臣の顔から、表情が剥がれ落ちていく。
ミケは、胸が裂けそうな痛みを覚えていた。自分の正体がバレた痛みではない。和臣が傷ついてしまったことが、どうしようもなく痛かった。
それこそが、彼女が言葉にできなかった“正体のない感情”そのものだった。
和臣は全ての感情を無くしたように、完全に固まっていた。
唇が震えている。何も声が出ない。
ミケが静かに手を伸ばした、その瞬間。
「やめてください!!」
和臣は、怯えた獣のような反射で後ずさった。
背中が壁に当たるのも構わず、呼吸を荒げる。
「来ないで……来ないでください……!」
「和臣さん、違う! 私は……」
「違わない!!」
震えた叫びが、別荘の静けさを裂いた。
「だって……! あなた……あなたは……!」
言葉はうまく出ない。まとまった形にならない。
ただ……“安心して信じてきっていたものが崩れ落ちる音”だけが心の中ではっきり響いている。
和臣の目は、ミケとチャンダナの間を揺れ動く。
(ここは……どこだ……? 僕は……何をされるんだ……?)
その思考が、胸の奥から本能を引きずり出した。
……逃げなきゃ。ここにいたら、殺される。
和臣は転げるように玄関へ走り出した。
「和臣さん!!」
ミケが叫んだが、彼女が追いかけるより早く、チャンダナがほぼ音もなく動いた。
「ダメ!」
訓練された素早い動きで和臣の腕を掴む。痛みすら感じない。
「はな、離して……!! 離せ!!」
和臣は死に物狂いの力で暴れる。だが、和臣がいくら暴れてもチャンダナには全く通用しない。チャンダナは短く息を吐き、和臣の身体を半回転させて倒す。
床が大きく揺れたように感じた。
「ごめん! 本当にごめん!」
チャンダナの声は明るくて軽い。けれど、その技は一切軽くなかった。
和臣は床に押さえつけられ、腕を拘束される。
「やめっ……! やめてください……!! ミケさん……助けて……!」
その言葉に、ミケの胸は切り裂かれた。
「和臣さん……違うの……そんなこと……」
ミケが近寄ると、和臣は怯えきった目で見上げた。
「来ないで!! お願いです……もう……来ないで……!」
ミケは足を止めた。
その言葉の重さが、胸の奥に刺さったまま抜けない。
チャンダナはひとまず和臣の動きを封じ、明るい口調で言う。
「悪い悪い! 落ち着いて! 君を傷つけるつもりはないから!」
しかし和臣には全く届かない。
彼の耳に届くのは、自分自身の荒い呼吸と心臓の音だけ。
(信じて……信じてたのに……僕だけ……バカみたいじゃないか……)
顔を逸らし、震えながら呟いた。
「……どうして……こんなことに……
僕……ただ……あなたのこと、信じてただけなのに……」
ミケは、一歩も近づけなかった。チャンダナに軽くあしらわれながら暴れる和臣を、ただ見つめることしかできなかった。
ミケの胸の中で燃える痛みは、さっき自覚したばかりの“名前をつけない感情”と同じ色だった。
チャンダナの腕に押さえつけられたまま、和臣はもう抵抗できなかった。
床に頬をつけ、息を荒らしながら、何度も何度も言葉をこぼした。
「どうして……どうして……僕……信じてたのに……ミケさんが……“美結さん”が……」その声は震えて、途切れ途切れで、まるで子どものように見えた。
「全部……嘘だったんですか……? 騙してたんですか……? 僕……何をされるんですか……殺されるんですよね……?」
その言葉はミケの胸に刃のように突き刺さった。
(違う……違う……そんなつもりじゃない……そんなつもりで……一緒にいたわけじゃ……)と言いたかった。でも言えなかった。
和臣が怯えた目でミケを見て、そのまま固まった。
「来ないで……!! ミケさん……もう……来るな……!!」
その声に、ミケは足を止めた。止まるしかなかった。
チャンダナは今の状況を見て、明るく、しかし有無を言わせぬ声を出した。
「よし……君は一旦、別の部屋だ」
軽い口調だったが、判断は早い。和臣の腕を固定し、体勢を崩さないよう支えながら立たせる。
「離してっ……! お願い……!! 僕、何もしてない……!! 帰りたい……帰りたい……!!」子どものような泣き声が混じり、言葉にならない音が漏れる。
「大丈夫だよ、大丈夫」
チャンダナは軽く言う。しかし腕の力は絶対に緩めない。和臣は力が抜け、足が震えていた。それでも必死に後ずさるように体を引こうとする。
「ミケさん……助けて…… 助けて……でも……来ないで…… 来ないで……」
矛盾した叫びに、ミケの心はもう形を保てなくなっていた。
チャンダナはミケの目を一度だけ見る。
ほんの一瞬。けれど……その瞳には
“わかっている”
という無言の意思があった。
「ミケ、彼は俺がやる。君は……触れるな。」
その言葉は、まるで痛みを避けるような優しさにも聞こえた。ミケは唇を噛んだまま、ただうなずいた。
「……お願いします」
「任せろ」
チャンダナは和臣を引きずらないよう配慮しつつ、しかし逃げられないよう確実な力で別室へ連れていく。
和臣は何度も確認するように叫んだ。
「どこに連れていくんですか……!? やだ……やだ……! 俺がやるって……!!あーっ殺される!!」
これで、第5章が終わりです。
来週25日夜から第6章を始めます。
よろしくお願いします。




