第5章 裏切り 3
その夜。別荘のリビング。
長旅で疲れた和臣はすでに眠り、窓の外には虫の声だけが響いている。
明かりは薄く、テーブルの上に置かれたランタンだけが丸い光を作っている。
静かな夜気の中、ミケはソファから身を起こした。
チャンダナはカップに紅茶を注ぎながら、軽い調子で言った。
「で、何をそんなに気にしてるんだい?」
ミケは少し間を置き、率直に尋ねた。
「……あなたが、さっきの男……ヨッチャンを使った理由よ」
チャンダナは一瞬きょとんとし、次の瞬間、吹き出した。
「ははっ。やっぱり考えてたんだ? 君って本当に“教科書どおり”だよねぇ」
「それってどういう意味?」
チャンダナは紅茶をすすり、肩をすくめた。
「エリートって、みんなそう。“現地協力者の選定には三つの基準が必要だ”とか、“リスクレベルを事前に分析して〜”とか、そういう理屈で動こうとする」
「……それは当然のことでしょう」
「でもね、現場ってのは、もっとシンプルなんだよ」
チャンダナは紅茶のカップを指先でくるりと回した。
声は軽いが、瞳の奥だけは静かに研ぎ澄まされている。
「ヨッチャンは、俺の大事な友達だ。それだけで十分」
「それだけ?」
「うん。それだけ」
ミケが眉をひそめるのを見て、チャンダナは笑いを深めた。
「だって、ガイドをやっている俺の友達がゲストを迎えに来る。それのどこに“不自然さ”がある?」
ミケは黙った。
「プロのガイドではない奴を使えば明らかに不自然だし、足跡が残る。組織の人間を使えば、もっと残る。でもね……ヨッチャンなら、俺が誰を迎えてもどこからも疑われることはない」
チャンダナは、ミケを真剣な眼差しで見つめた。
「“何も知らない一般人”ってのは、最強のカモフラージュなんだよ。
それを理解してないのは……むしろ君たちエリートのほうさ」
ミケは息をのんだ。
「……あなたは最初から計算して?」
「いや、計算なんてしてないよ」
チャンダナはケラケラ笑った。
「ただね、ヨッチャンみたいな“本当にいい奴”がそばにいると、どんなに危ない作戦でも、日常の空気で包める。それが結果的に一番バレにくいんだ。その代わり、俺は彼が危険な目に合うようなことはさせないし、どんなことがあっても絶対に彼を守る。」
ランタンの光がチャンダナの横顔を照らす。
軽さの奥にある、確かな現場感。
ミケはようやく、そこに気づき始めた。
「……私は、考えすぎていたのかもしれない」
「うん。君は真面目だからね。でも、真面目すぎると逆に“プロの匂い”が出るよ?」
チャンダナは冗談めかして言うと、ふっと優しく笑った。
「大丈夫。俺は敵じゃない。君たちには俺がついてる。そのかわり……俺が選ぶやり方を、もう少し信じてみてくれる?」
ミケは静かにうなずいた。
そのとき、風が森をざわざわと揺らす音が聞こえた。
スリランカの夜は、深く穏やかに沈んでいく。
ランタンの淡い灯りが、テーブルの上に円を落とす。
その輪の端で、ミケの手がわずかに震えていた。
チャンダナが静かに言う。
「上から何を言われていても、君は、どうせ和臣を守るんだろ。それだけが……今やるべきことだ」
ミケは返事をしなかった。
ただ、胸の奥で何かがふいに軋む音がした。
「……私の、せいなの」
ぽつりと落ちた声は、震えているのか、怒っているのか、本人にもわからない。
「和臣さんを危険に晒し、普通の生活を奪って……それなのに……」
そこで言葉が止まった。
それ以上は声にならなかった。
チャンダナはミケを見たまま、茶を置いた。
「君は気づいてるんだろ」
「……何を?」
「自分の気持ちさ。……いや、違うな……“その気持ちに気づいてしまった”と言うべきかな」
ミケの呼吸が浅くなる。
こんなふうに見透かされるのは初めてだった。
心臓の鼓動が早くなり、身体が急に熱くなる。
それをチャンダナは無理に追及しない。ただ、淡々と事実だけを告げるように言った。
「いま君の表情には、“任務”の匂いはないよ」
ミケは指先を強く握りしめた。
否定しようと思った、けれど……できなかった。
胸の奥で感情が疼く……
否定すればするほど強くなる。
チャンダナは優しく続けた。
「別に言わなくていい。口に出す必要はないさ。ただ……気づいたなら、それで十分だ」
ミケは手のひらを見つめた。
そこには、痛いほどはっきりとした実感があった。
……和臣のことを考えるだけで、胸が苦しい。
……笑っていると、理由もなく安心する。
……触れそうになった瞬間、息が止まる。
でも、言えなかった。
言葉にしたくなかった。
ミケはただ、ゆっくりと息を吐いた。
「……私には、彼を守る理由があるから……」
チャンダナは小さく笑った。
「うん。それでいい。
誰にだって、“言葉にしないほうが強くなれる気持ち”はある」
ミケは目を閉じた。
胸の奥で暴れる感情が、もう元には戻らないことだけはわかった。
「……和臣さんを守ります。……もう、彼を放ってはおけないから」
その一言だけで、すべては十分だった。
チャンダナは立ち上がり、ランタンを少し弱めた。
「その気持ちは、君をもっと強くするよ。この先を怖がる必要はない」
ミケは、何も言わなかった。ただ、胸に手を当ててみた。
(和臣を守りたい。絶対に……任務がどうなろうと私は、和臣を守り切る)
押し込めてきた感情は、もう二度と沈んでくれそうにはなかった。
そのとき。
廊下のほうから、きしっ……と微かな音がした。
ミケもチャンダナも振り向く。
半開きの扉の向こうに、
寝ぼけたような和臣が立っていた。
「……ミケさん……?」
髪は少し乱れ、ゆるいスウェット姿。
いつもより幼く見える表情。
ミケは反射的に立ちあがった。
「和臣さん、どうしたの……?」
「喉が渇いて……水を……」
ぼんやりしながら視線を動かす。ミケとチャンダナを照らすランタンの光がテーブルも照らしている。
和臣はそのテーブルの上に置かれた数枚の書類に目を止めた。
チャンダナが慌てて紙を手元に寄せようとした。
「あっ、やべ……!」
そのとき……その紙の一部が和臣の足元へ滑った。
和臣は反射的にそれを拾い上げた。
どこか外国の軍服を着たミケの写真とともに見えた名前。
《LIM MEI-LIN Captain / Intelligence Division》
和臣は一瞬、呼吸が止まった。そして一瞬のうちに眠気が吹き飛んだ。
「……誰、これ」
和臣が紙を持ち上げると、チャンダナが飛びつくように手を伸ばした。
「あっ! ちょ、ちょっと、それは……!」
ミケの顔色が、すっと消えたように白くなった。
「和臣さん……それを……返してください」
和臣の手は、小刻みに震えている。
理解が追いついていないのではなく、理解したくない現実を前に固まっているのだ。
「……あなたは “誰”なんですか」
ミケは喉が詰まるような感覚に耐えながら、小さく首を振った。
「それは……」
和臣は紙を握りしめたまま、言葉を探すように口を開いた。
「“リム・メイリン”って……一体誰……?」
ミケの視線が揺れた。何かを言えば、すべてが壊れる。しかし、黙っていても壊れる。
和臣の声は、笑っているように震えていた。
「だって……パスポートの“倉橋美結”って……あなた、あれが本名だって……僕……信じたんですよ……」
ミケは胸が潰れそうで、息ができなかった。
今この瞬間、自分の正体が露見したことよりも……
和臣の声が、泣き出しそうに震えていることの方が痛い。
「和臣さん……あれは……」
言葉が続かなかった。
“あなたを連れ出して消すことが任務だったから”
なんて言える訳がない。




