第5章 裏切り 2
バンダラナイケ国際空港の入国審査カウンターの手前には、大きな白い仏像が安置されている。ミケは仏教徒という訳ではないが、一瞬立ち止まって、これからの二人の無事を祈った。入国審査を抜け、自動ドアを通った瞬間、重たい湿気が肌に貼りついた。空港の到着ロビーは、夕方の濃い熱気と雑多なざわめきが満ちている。
家族を持つ迎えの人々、タクシードライバーの呼び込み、そして名札を持った旅行社のガイド。世界の色が一気に変わる。
「……あれ、ミケさんの名前じゃない?」
和臣が立ち止まり、ロビー奥の一角を指さした。
紙のボードにはっきりと
KURAHASHI / OKADA
と書かれている。
紙のボードを持っていたのは、四十代くらいの男だった。オレンジ色の半袖シャツに緑色のスカートのように見える「サロン」という布を巻いている、ネームプレートらしきものを下げ、柔らかい笑みを浮かべて二人に手を振る。
「クラハシさん、オカダさん? ようこそスリランカへ。旅行社のガイドです」
聞こえた瞬間、ミケは一瞬だけ眉を上げた。
東南アジア系なのかと思ったが、発音が完全に日本人だ。
男は近づいてくると、人懐っこい笑顔のまま頭を下げた。
「どうもどうも、はじめまして。ヨッチャンです。
“スリランカ案内人”なんて名乗ってますけどね、日本人です。
今日はお二人をお出迎えにあがりました。長旅、お疲れさまでした」
和臣は途端に安心したように顔をほころばせた。
「日本の方なんですね! よかった……」
ミケも、表面上は微笑みを返した。
だが……内心では別の波紋が広がっていた。
(日本人……? そう来る? じゃあ彼は、どこが手配した“迎え”なの?)
ヨッチャンの穏やかすぎる笑顔に、あまりに派手すぎる格好。
そこに敵意は見えない。どちらかといえば、旅行好きの中年が個人ガイドでもしている雰囲気だ。
それに“スリランカ案内人”などとわざわざ名乗るのも変で、組織の匂いが全くしない。
「車、こっちですよー!」
ヨッチャンは明るい声で手を振り、駐車場の奥へと歩いていく。
そこには、年式こそ古いが“観光ガイドが使いそうな”ほどほどに使い込まれた日本製のSUVが停まっていた。
特徴がなく、観光でも個人ガイドでも使われ得る……あまりにも普通の車。
運転席には、スリランカ人の男性が座っていた。
小柄で、人懐っこい目。
ヨッチャンが近づくと、彼は手を挙げて笑顔で挨拶した。
二人は慣れた調子で言葉を交わし、自然に笑い合っている。
その空気は、どう見ても長く一緒に働いている仲の良い同僚そのものだった。
怪しさの欠片もない。
(……本当に“案内人”とドライバーの関係に見える。不自然さが全くない。だからこそ、判断できない)
「どうぞどうぞ、荷物ここ置いちゃってください」
ヨッチャンは慣れた手つきで後部ドアを開け、スーツケースを積み込んだ。
和臣は、完全に安心したように微笑んだ。
「なんだか一気にホッとしました……日本人が迎えてくれるなんて」
「いやいやー、僕なんかでよければね。別荘までけっこう距離ありますけど、ゆっくり行きましょう」
ヨッチャンの声は明るく、軽く、自然そのもの。
それが逆にミケの胸をざわつかせた。
(……普通すぎる。自然すぎる。手配されたエージェントだったら、いくらプロでも何か隠しきれない“粗”が出るはず。でも彼には、それがない)
SUVの車内も、適度に古い観光車の匂いがするだけ。
余計な機材も、隠された武器もない。
本当にただの“ローカルガイドの車”だ。
(……この自然さは、本物? それとも偽物を“自然に見せる”ために訓練されてる?
どっち?)
「どうぞ」
ヨッチャンがにこにこしながら後部ドアを開けた。
「わたしが先に」とミケは低く言い、先に乗り込んだ。
慎重に室内を観察する。
しかし……何もない。
本当に、何も。
その“何もなさ”が、彼女を困惑させた。
(手がかりがゼロ……。どちらにも転べる。敵にも、味方にも、完全な“普通のガイド”にも)
和臣がミケの隣に座ると、ヨッチャンが運転席の男性に声をかける。
「じゃ、行こうか!」
「OK!」
車が静かに走り出す。
その揺れさえも、ごく自然なものだった。
(……わからない。ここまで情報がないと、判断のしようがない)
ミケは窓の外の暗くなりゆく街を見つめながら、
胸の奥でひそかに息を整えた。
(この状況で迷うのは、最悪。冷静に、観察するしかない)
SUVは街灯の少ない道路を、緩やかに走っていた。
窓の外を流れる景色は、夕闇を越え、徐々に夜の深みへ沈んでいく。車内は驚くほど普通で、空調の音が控えめに響いていた。
「いやあ、今日はさすがに暑いですねぇ。でもこの時期はまだマシなんですけどね。もっと蒸す時期は地獄なんですよ」
助手席のヨッチャンが、自然な日本語で笑いながら話す。その明るさは“作り物”には見えない。ただの、海外で長く暮らす日本人の空気だ。
「ヨッチャンさん、スリランカに長いんですか?」
和臣がすっかり安心した様子で尋ねた。
「ええ、まあ十年くらい?
ガイドやったり、送迎やったり、いろいろしてんですよ。やっぱり、日本のお客さんはいいですよねぇ」
話しぶりは軽く、自然で、裏がない。
むしろ裏を探す方が難しい。
(……こんな自然な“普通の人”が送り迎えに来るなんて。
本当にただのガイド?
それとも“自然すぎる”のが逆に……?)
ミケの胸の奥では、判断不能の霧がさらに濃くなる。
ドライバーのスリランカ人男性も、ヨッチャンと気心が知れた様子で会話を交わしていた。
会話は英語とシンハラ語、少しの日本語。
どれも自然で、疑う余地はない。
(敵意も、監視も、圧迫感も……ない。本当に“普通”。普通すぎて、逆に困る)
やがて、街の光が遠のき、車は緩やかな傾斜を上っていった。
熱帯の夜風が木々を揺らし、虫の声が聞こえてくる。
「はい、こっからはちょっと山道入りますねー」
ヨッチャンの声は変わらず明るい。
暗い山道に入ってしばらく走ると、前方に小さな門が見えてきた。
その奥に白い壁の別荘がぼんやりと灯りに浮かんでいる。
「ここです! この別荘で間違いないですよ」
SUVが別荘の前に停まると、ヨッチャンがすぐに降りて後部ドアを開けた。
車を降りると、夜気がひんやりと肌を撫でる。
「はいはい~、ここですよ! いやぁ、山道ちょっと揺れたね、ごめんごめん!」
その軽さは嘘のように自然で、ミケにも違和感はなかった。本当に“明るい現地在住の日本人ガイド”という雰囲気だ。
「チャンダナさーん! 来たよー!」
ヨッチャンが玄関に向かって声をかけた。
途端に、玄関の灯りがパッと点いた。
木の扉が開き、中から背の高い男が出てくる。
「おおっ、ヨッチャン!助かったよ、ありがと!」
少し調子の外れたような、軽い声。
それがチャンダナだった。
別荘の段差を下りながら、ヨッチャンに手を振る。
その様子は……思ったよりずっと明るい。
丸みのある笑顔を浮かべ、慣れた足取りでヨッチャンに近づく。
「道、迷わなかった? ああでもヨッチャンは慣れてるから大丈夫か!」
チャンダナはそう言いながらヨッチャンの肩を軽く叩く。
「いつも迷うのはチャンダナさんでしょ~」
ヨッチャンが笑いながら返し、二人で軽くじゃれ合うように笑った。
この二人、本当に友達だ。
その空気には、嘘のような硬さは一切なかった。
(……自然。軽い。人当たりがいい。でも……どこまでが本当?)
ミケはそのやりとりを見ながら、胸の奥で引っかかる感覚を覚えていた。チャンダナの笑い声は本物のように聞こえる。ヨッチャンとの関係も本物だ。
しかし……その“自然すぎる空気”が逆に気になった。
チャンダナがこちらに気づき、笑顔のまま一歩近づいてくる。
「初めまして。チャンダナです!
いやぁ、遠いところを……大変でしたね!」
明るい声。柔らかい表情。だが、ミケにはわずかな違和感が残った。
(目が笑ってない……?
いや、違う。笑ってる。でも……“見ている”。)
一瞬だけ交差した視線に、冷静な光が走った。
それは“ただの明るい男”のものではない。
訓練された観察者の目。しかしその光はすぐにかき消され、また人懐っこい笑顔に戻る。
「ヨッチャン、本当に助かったよ!お礼は今度ね!」
「いやいや、気にしないで~。二人とも観光したくなったら呼んでね!」
ヨッチャンは、ミケと和臣に向かって手を振った。
「じゃ、僕は帰るね。ほんと、何かあったら呼んでくださいよ~。じゃあ、よい滞在をー!」
SUVが走り去ると、夜の静けさが戻った。
玄関前に残ったのは、ミケ、和臣、そして……チャンダナ。
チャンダナは軽く笑ったまま言った。
「さあ、中に入りましょう。今夜は、ゆっくり休んでください」
その声は優しい。けれど、その奥で何かが静かに息を潜めていた。




