第5章 裏切り 1
成田空港第二ターミナル出発ロビーの自動ドアが静かに開いた。
早朝の空港には、冷たい照明とアナウンスの声が漂っている。二人は無言のままチェックインカウンターへと歩き出した。
ミケは肩掛けのバッグから赤いパスポートを取り出し、慣れた手つきで差し出した。
「はい、これ私の」
和臣は何気なくそれを受け取り、ページを開いた。
そこに印字されていた文字を見た瞬間、目を見張る。
日本国パスポート
氏名:倉橋美結(KURAHASHI MIKE)
「……ミケって」
和臣は思わず声を漏らした。
「ハンドルネームじゃなくて……本名だったんだ」
ミケは小さく笑みを浮かべ、視線を伏せた。
「うん。ちゃんと言わなくて、ごめんね。」
その柔らかな声に、和臣の胸の奥がじんと熱くなる。
(信じてよかった。ミケは、本当に嘘なんかつかない人だ……)
カウンターの係員が二人のパスポートを確認し、無機質なスタンプの音が響く。
和臣はミケの背に寄り添うように歩きながら、搭乗ゲートへと向かった。
彼の中に、もう「疑う」という選択肢は存在していなかった。
搭乗ゲートへ向かう途中、空港の窓越しに朝の光が差し込み始めていた。
ガラス越しの駐機場には、白い機体がいくつも並び、地上職員たちが黙々と作業をしているのが見える。アナウンスが何度も繰り返され、遠くでカートのタイヤが床を擦る音が響く。
ミケは歩きながら、唇の内側をそっと噛んだ。
(ここから先は、もう一歩も間違えられない)
肩の力を抜いたふりをしながら、周囲の視線を自然に確認する。ガラスに映る背後。廊下の角に立つ黒いスーツの男性。ただの偶然かもしれない……けれど、確信には至らない微かな違和感があった。
「どうしたの?」
和臣が小声で尋ねる。
「ううん、なんでもない。ただ、早く座りたいだけ」
ミケは微笑み、手荷物のストラップを握り直した。その指先には、わずかに汗がにじんでいる。
75番ゲート前のベンチに腰を下ろすと、和臣はほっと息をついた。
「なんか、やっと実感がわいてきたな。スリランカか……」
ミケは頷き、少しだけ笑う。
「暑い国だよ。きっと驚くと思う」
和臣が窓の外を見つめる間、ミケは周辺の様子をさりげなくチェックした。日本人団体客やスリランカに帰国するらしいスリランカ人家族、出張にでも行くようなスーツ姿の男性。そこに違和感はない
(でも監視されていないなんてことがある訳がない……)
搭乗開始のアナウンスが流れ、乗客たちが立ち上がり始める。
ミケは深呼吸を一つして、表情を整えた。
「行こうか」
その声には、震えひとつなかった。
和臣は軽く頷き、彼女のあとを追う。
ミケの背中を見つめながら、和臣はただ、これから始まる旅に期待を膨らませていた。
彼は知らない……彼女の「笑顔」が、どれほど必死に作られたものかを。
機内の照明がほんの少し落とされ、人々のざわめきが静まっていった。
頭上の収納棚が次々と閉じられ、客室乗務員が通路を確認していく。ミケは背もたれに深く体を預け、息を整えた。ブラインドが開けられた窓からは、外の光がやわらかく差し込んでいる。
やがて、機内にお決まりのアナウンスが流れた。
「まもなくドアが閉まります。座席の背もたれとテーブルを元の位置にお戻しください」
シートベルトを締め直す音が周囲で重なった。ミケの胸の奥で、緊張の輪がゆっくりと締まっていく。
離陸前の安全デモが始まる。乗務員が酸素マスクとライフジャケットを示すあいだ、ミケは視線を正面に向けていたが、意識の半分では周囲の動きに注意していた。
機体がゆっくりと動き出し、地上走行を始める。誘導路を進む間、エンジンの低い唸りが少しずつ力を帯び、足元がわずかに震えた。
滑走路の端に止まると、機体の中の空気が張りつめる。
エンジン音が急に高まり、身体が座席に押しつけられた。視界の外側が僅かに揺れ、機体が浮き上がる。雲へ向けて上昇するにつれ、陽光が翼をきらりと照らした。
上昇中の、耳がつまるような圧が変化して、やがてシートベルトサインが消えた。乗務員たちが立ち上がり、カートを押して通路に現れる。
「セイロンティーはいかがですか?」
紙コップに注がれたお茶やジュース、小袋のプレッツェルが配られていく。
和臣はオレンジジュースを受け取って、嬉しそうに袋を破った。
「国際線の機内って、もっと緊張するかと思ったけど……意外と普通なんだな」
「ふふ。まだ序盤だから。長いよ、ここから」
ミケは笑った。自分でも驚くほど自然な声が出た。
けれど、手はカップの下でわずかに震えている。
雲の帯が途切れ、真っ白な海のようにどこまでも広がるころ、機内照明が明るさを少し取り戻した。ミールサービスの合図だ。温められた主菜の匂いが機内いっぱいに流れ込んでくる。
カートが列を進み、乗務員が柔らかな声で尋ねた。
“Fish or Chicken?”
和臣はメニューカードを覗き込み、目を輝かせた。
「魚は和風、チキンはカレーか、どっちも美味しそうだな……」
「スリランカ航空のカレーは当たりが多いよ」
ミケは笑顔で言いながら、胸の奥で鼓動が高まるのを感じていた。
たぶん、機内にいる間は大丈夫。
和臣がチキンのカレーを選ぶと、乗務員はトレーを和臣に渡しながら、
「Enjoy!」とにこやかに言いって先に進んだ。だが、絶対の安全など存在しない。
和臣は、アルミの蓋を開けながら子どものように微笑んだ。
「機内食って、意外と悪くないんだな」
「今だけね。着陸の前にある二回目の機内食には飽きるかもね」
ミケは静かに言い、ブランケットを肩にかけた。
その横顔を和臣が無邪気に覗き込んでくる。
その目に浮かぶ嘘を隠すために、ミケはもう一度だけ笑う。
やがて、客室乗務員のアナウンスがシンハラ語と英語で響いた。
「まもなくバンダラナイケ国際空港に着陸いたします」
窓の外では、橙色の夕陽が海原を染めていた。滑走路の灯火が一本の線になり、まるで夜の入り口へ誘う道のように浮かんでいる。
和臣が眠りから覚め、瞳をきらきらさせて窓に寄った。
「すごい……もう夜みたいだ」
「赤道の近くだからね。日が沈むのが早いの」
ミケは穏やかに答える。だが同じ言葉の奥で、別の言葉が震えていた。
(ここからが本番。降りた瞬間から全方向に注意しないと)
着陸の衝撃。
機体が地面に触れ、短く跳ね、減速していく。
和臣がミケを振り返る。
「着いたね」
「うん……ここは美しい国よ。ようこそ、スリランカへ」
ミケの笑顔は完璧だった。
だがその裏で、心臓の鼓動は離陸時より速い。
……誰か迎えに来ているのか。
……どこまで悟られているのか。
タラップから流れ込む湿った熱気が肌を包み込む。
その瞬間、ミケは確信した。
(この国で、運命が決まる)




