第4章 政変 1
和臣が打ちのめされていた、まさにその頃。
A国では閣僚による定例の会議が行われていた。数か月後に予定されているAPEC首脳会合で、A国はアジア経済の牽引役としての役割を演じようとしていた。そのような時期に、日本で保守政党が政権与党となったことで、両国の関係が冷え込みつつあるなか、A国のリーダーシップを世界に見せるためにも、どのように日本との関係を改善していくかがA国の大統領にとって大きな課題の一つだった。
A国にとっても、日本にとっても「一歩も引けない線」はある。しかし、両国の歴代の指導者は国内感情にも配慮しつつ、問題をうまく棚上げしてきたのが現実だった。しかし、SNSが大きく広がるにつれて、政治の力だけではそれぞれの国で広がる「反A国」、「反日」の声を制御することは難しくなってきているのだった。ほんの少しかじ取りを間違えれば、国民の声が一気に危機を招きかねないと大統領は頭を悩ませていた。
(少し……疲れすぎたか)
大統領は、こめかみに指を当てながら発言を続けていた。
頭の奥が重く、言葉がわずかに遅れて口をついて出る。
議長が大統領の発言を遮って、次の議題に移ろうとした時だった。
大統領が直前まで話をしていた言葉の続きが、口元で途切れたまま凍りついていた。
顔の右半分が不自然に下がり、目の焦点が合っていない。
片方の手だけが机の上で弱く震え、もう片方は力なく垂れ下がっている。と、次の瞬間座っていた大統領が、椅子から崩れ落ちるように倒れた。
「大統領!?」
議長の声が裏返った。
室内が一瞬、凍りついた。
複数の閣僚が同時に席を立ち、椅子が派手に倒れる。
書類が宙を舞い、床に落ちて散らばる。
誰よりも早く大統領の側へ駆け寄ったのは、側近のアイシャ・ラーマンだった。
彼女は冷静に呼吸を確認し、脈をとりながら周囲を見回した。
「気を確かに!」
「右手が……動かない?!」
周囲を走る緊張が一気に加速する。
「救護班を呼んで! すぐに!」アイシャが大声で叫ぶ。
「意識レベル低下! 返事が……」
大統領の唇がうまく動かず、言葉が濁って出てくる。
「……ぁ……る……」
言葉が出ず、何を言おうとしているのかまったく聞き取れない。
焦りで誰かが無線のチャンネルを間違え、別の誰かが急いで設定を直そうと手元がもたつく。
「医療室に搬送! ストレッチャーを早く!」
「廊下を確保しろ!」
会議室の扉が勢いよく開き、警備員が走り込む。
その足音だけが妙に鋭く響く。
救護班が到着すると、空気が切り替わった。
医師が大統領の瞳孔と呼吸を素早く確認する。
「右側麻痺あり。すぐに搬送!」
ストレッチャーが押し込まれ、周囲が急いで道を開ける。
「酸素準備! 血圧測定……いや、まず気道だ!」
医療スタッフの指示が矢継ぎ早に飛ぶ。
大統領の胸が浅く上下し、息がかすれている。
片側の握りしめた手だけが、微かに痙攣していた。
「大統領、聞こえますか? まばたきできますか?」
問いかけに反応がなく、医師の表情が険しくなった。
ストレッチャーが勢いよく廊下に飛び出し、大統領府内の医療室に向かって進む。
廊下の突き当たりで、医師が短く叫ぶ。
「脳卒中疑い!急げ!」
その言葉に、周囲の幹部たちが一斉に息を呑んだ。
誰もが知っていた。
今のこの事態が、政治的な混乱だけでなく……
大統領自身の未来、そしてA国の未来そのものを左右するということを。
ストレッチャーが医療室に吸い込まれて扉が閉まると、残された人々はようやく気付く。
床には散らばった書類、倒れた椅子、こぼれたコーヒーの染み。
混乱の痕跡だけが静かに残っている。
静寂の中で、誰かが小さく呟いた。
「……これは、国の一大事だぞ……」
権限委譲は、緊急事態条項に基づいて自動的に発動する。
権限が委譲された副大統領と、参謀本部長はわずかに視線を交わした。ほんの一瞬、唇の端が動く。
それが笑みであることに気付いた者はほとんどいなかった。
(ついに、この時が来た。)
副大統領は素早く補佐官に指示を出す。
「大統領代行として、直ちに危機管理会議を招集せよ。日本への対応方針は、強硬策を中心に再検討する」
周囲の空気がわずかにざわつく。
……今までの均衡は、崩れる。
アイシャ・ラーマンは薄笑いを浮かべる副大統領と参謀本部長を鋭くにらみつけていた。




