第3章 手のひら返し 2
夜になっても、外国人青年が日本人の集団から暴行されたというニュースのコメント欄には怒号が渦巻いていた。
《どうせ犯人も外国人だろ》
《排除しろ》
《このままではいけない。外国人から国を守れ!》
《病院の金は当然外国人の自腹だよな》
全く止む気配のない投稿が続く。それを見ていた和臣は、指が震えるのを感じながら、一つだけ言葉を打ち込んだ。
「それは違う。すべての外国人が敵じゃないと思う。どう考えてもこの事件は暴行した犯人が悪い。被害者を悪く言うのはやめろ」
送信。
画面が更新される。
その瞬間……和臣をとりまく世界の表情が変わった。
《は? お前誰の味方なんだよ》
《急に裏切りか?》
《オカピ本人登場!》
《偽愛国者が。消えろ》
《やっぱり金もらってんだろ》
《外国の手先だったんだな》
非難の声は、あっと言う間にニュースのコメント欄から、和臣のSNSへの投稿に変わっていく。
和臣を「すごい」と称えていた声は、一瞬で刃に変わった。
通知が止まらない。
誹謗中傷、罵倒、疑念、嘲笑。
そのどれもが、和臣の胸に深く突き刺さる。
(どうして……? 僕は正しいことを言っただけなのに)
画面が滲んだ。
それが涙か、疲れか、和臣には判別できなかった。
通知音は、やがて「音」ではなく「振動」だけを伝えるようになった。
机の上で、スマートフォンが小刻みに震え続けている。
《お前日本人じゃないだろ》
《きっしょ》
《口だけは一丁前》
《安全圏から正義マン気取り》
《お前みたいなのが一番国を腐らせてんだよ》
《偽善者のテンプレ》
画面は、罵声で埋まっていく。
《どうせ現実じゃ何もできねえくせに》
《ネットでイキってるだけの雑魚》
《理想語る前に働け》
《黙って消えろ》
《オカピの投稿は、前から何か変だぞ。A国の関係者じゃないか?》
ところが、時間が経つと、次第に言葉の種類が変わり始めた。
《あいつはA国人なんじゃないか?》
《ログ保存完了》
《スクショ取った》
《こいつの発言履歴洗える人いる?》
《こいつ、前にも同じようなこと言ってる》
和臣は、自分の呼吸が一瞬止まったように感じた。そこに並んでいるのは、怒りでも正義でもない。「作業」を共有する言葉だった。
《アイコン履歴、ちょっと追えるかも》
《文体、掲示板のあのスレと似てない?》
《生活リズム、だいたい夜型》
《郊外住みっぽい》
(これはもう……遊びじゃない)
胸の奥で、はっきりとわかってしまった。和臣は無意識にドアのほうを見る。
部屋の照明は消してある。鍵は……ちゃんと閉めただろうか。
そっと立ち上がり、音を立てないように歩く。
指先でカギとチェーンを確かめる。
かかっている。
郵便受けが荒らされた形跡もない。
インターホンも鳴っていない。
窓の外は、静かだった。
街灯の光が、アスファルトをぼんやりと照らしている。
車も、人影もない。
遠くで犬の鳴き声が一度だけ聞こえた。
部屋に戻ると、画面の中ではまだ言葉が流れ続けていた。
《生きてる価値あんの?》
《社会にとってマイナスなんだけど》
《空気吸うだけで迷惑》
同じ言葉が、何度も何度も流れていく。
《消えろ》
《消えろ》
《消えろ》
和臣は椅子に座り込んだまま、動けなくなった。
(……僕が、何か間違ってたのか?)
一瞬、そんな考えが頭をよぎる。
言わない方がよかったのか。黙っていればよかったのか。何もしなければ、こうはならなかったのか。
だが、すぐに別の映像が浮かぶ。
ニュースに映っていた、被害にあったあの外国人青年や、その家族。
ネット空間と違い、部屋の中は相変わらず静かだった。
ドアは叩かれない。
窓ガラスも割れない。
玄関のチャイムも鳴らない。
脅威は、まだ「文字」の中だけにあった。
それが、何よりも恐ろしかった。
《今日はここまでかな》
《続きはまた夜》
《情報あったら投げる》
最後の一言は、やけに軽かった。
和臣はスマートフォンを机の上に伏せた。
だが、完全に裏返すことはできない。
画面の光が、机の傷に細い線を描いている。
(まだ……来ていない)
その言葉が、胸の中で何度も反響する。
“まだ”という言葉だけが、和臣の心臓の音と一緒に、大きくなっていった。




