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わたしが手を止めたところで、時間の流れが止まるわけじゃない。むしろ、手早く済ませて、わたしの護衛を終わらせるのが一番いい。アルディさんにはまだ仕事が残ってるんだから。
――分かってる。分かってるのに……。
わたしの動きが完全に止まったからか、アルディさんが少しだけ、頭を動かす。
「どうしたの? ……もしかして、どこかハゲてる、とか?」
「まだ若いのに!」と冗談めいた声音でアルディさんが言う。
「ハ、ハゲてはいないです。むしろさらさらで綺麗――ですよ」
途中から、急に何を言い出してしまったんだ、と思ったけれど、下手に言いよどむ方が恥ずかしいかと思って、わたしはなんとか言い切る。急に褒められたアルディさんは、「そ、そう?」と落ち着かないように耳がぴょこぴょこと動いていた。
「その――、少し、さみしいな、って思ってしまって」
こんなことを言ったって彼を困らせるだけなのは分かっている。ハウントさんやお父様ならまだしも、アルディさんにそこまで決定権があるとは思えない。
「忘れて――」
「じゃあ、もう少し雑談していく?」
忘れてください、と言おうとしていたわたしの言葉を、アルディさんがさえぎる。
「少しくらいサボっても平気だよ。バレないって」
「で、でも……」
たしかに、今ここにいるのはわたしたちだけだ。とはいえ、すぐ傍に獣化した皆がいる檻がある。見えなくても聞こえているだろう。
「あんまりご令嬢のお嬢様に悪いこと教えると怒られるんだけどさ、騎士団でサボりを通らないやつなんていないんだって」
そう言うと、アルディさんは今日ブラッシングした人たちのサボり具合を話始めた。
書類を届けるついでに城のメイドと雑談していく人とか、武具や防具の手入れを必要以上にして座る時間を稼ぐ人とか、迷子になった振りをして気分転換に散歩する人とか。
「もちろん、あんまり仕事に差し支えるようなレベルで怠けている奴には注意するし、罰走があるけどね。でも、ハウントだって、客人に出す茶葉を選ぶっていう名目で、堂々と茶を飲んで休んでいるときあるし」
いかにも真面目そうなハウントさんがまでもがサボりとは。ちょっと意外である。
「だから、ま、僕のブラッシングってことで、短くても一人ニ十分強はかかってるし――うん、あと十五分くらいは平気」
カチャ、とアルディさんが懐中時計を取り出して、時間を確認する。
「僕は女性の雑談に話題提供するようなネタを持ってないけど……まあ、話くらいはいくらでもできるし」
それはわたしも同じ、というのは言った方がいいんだろうか? 世の中のご令嬢がお茶会で話すような内容をわたしは知らない。物語だと、流行のドレスやアクセサリーの話とかを見かけるけど……。
あとは婚約者の話――恋の話、とか。
でも、それこそ、難しい話だよね。わたしは婚約破棄されたばっかりだし、そんなことを話題にされてもアルディさんだって困るだけだ。