レテ、忘却の川より。
川は深く、冷たく、暗い。だが不思議なことに深くなればなるほど寒いという感覚は消えてゆく。吸い込まれる、吸い込まれていく。嫌だ、怖い。怖い?嫌?
フラン...そのあとは?私の名前なのに、思い出せない。私のお父さんの名前は?お母さんの名前は?友達の名前は?怖い?嫌だ?それってなんだ?
私って、どんな形をしていた?
たしか、星みたいな形で、違う?しかく?まる?
かたち?いきのも?ことわ?...
...、...。
...。
...
レテ川、漂白剤の流れる川だ。そこに流れる魂は全てが洗い落とされる。穢れも、清らかさも、喜びも、悲しみも、憎しみも、愛も、全てが等しく洗い落とされ、魂は忘却たる純白となる。
瞼を開けるとすぐに眩しいという感情を思い出した。形も、名前も、私という一個体の全てを思い出す。そして不愉快という感覚も思い出す。寝汗でネグリジェがぐしょぐしょだ。冬だというのに、よくもまぁこんなにという感じがする。
枕がいつもよりも高い。しかも日の入り方が違う。私の部屋では無い、彼の部屋だ。
右に寝返るとそこには4つのイーゼルがあって、そのうち3つには絵画が飾ってある。右は大聖堂、中央はポピーの点描、左は私だ。特に大聖堂の絵画が面白い。下の方、雪に当たる面に砂かなんかを塗っている。これも何かの技法なのだろうか。
ベッドから起き上がり、その大聖堂の絵の下部分に注目する。この砂、粒がとても小さくて所々キラキラしている。貝殻か何かを細く砕いて、そこに石英や水晶の粉末を混ぜたのか?確かにそうすれば、積雪の煌めきと質感を再現できそうだ。
芸術と数学は似ている。目算を立てて、そこから逆算してそれに至る連なりを再現する。彼の頭の中にはすでにこの絵を解があるんだろう。彼はその解を求めるのに必要な式をこのように組み立て、再現している。
次に私は自分自身の描かれた絵を鑑賞する。まず、カーテンの柄と色が違う。こんな金と紫の上品なカーテンは家には無い。そして次にあの時、私がつけていなかった、梟をあしらったネックレスがある。見栄えのいい嘘である。
大抵こういうのは権力や富を有する者が社会的地位の証として、姿形を理想化して絵画に残すために描かれる。また、その過程でその人物の心情や内面を表現することもある。ともなれば嘘も必要であろう。肖像画が写真では無いという所以はここにある。
そういえば、この前の絵はどこにあるのか。彼には悪いが、部屋の中を探検させて貰おう。まずは近くの棚の上から。この前のスケッチブック、ペン、私がやれって言った日記。取り上げずスケッチブックを見てみたい。
表紙を捲る。最初に出てきたのは彼の左手の絵だ。私は自分の左手をその手に乗せてみた。絵だから当たり前だが、私の手よりもとても大きく、力強い。所々岩のようにゴツゴツしていて、血管が浮き出ている。別に男の手なんて仕事柄しょっちゅうみてるから、殴られたら痛そうだなとしか感じない。だが彼は別だ。私が彼が死んでいる時の手を知っているし、生きているの時の手も知った。どちらもあんまり変わらないし、モノクロである以上唯一の違いである色味も感じ取れない。にも関わらず、その手に一種の安心感を感じるのはなぜだろう。死は絵にすら現れる。生きている間、脳は常に死を認識している。
また1ページ捲る、これはリスか。リスといえば自分の尻尾を枕代わりにしたり傘代わりにしたりすることはあまりに有名だ。次のページにあるのは汽車か。それで次は花瓶、その次は私だ。朝か、昼頃に描いたのか。料理をしている私の後ろ姿だ。自分の後ろ姿を見る機会があまり無いので新鮮である。彼が美化しているのか、現実としてなのか、スタイルが凄くいい。脚が長くてすらっとしている。また次のページ、そこにはヴェールを纏い、ピエタのポーズをした骸骨がいた。また骨盤の形からして女性だろう。
死の聖母信仰、死を擬人化し、死を崇拝する信仰。一時期、といっても400年くらい前はカトリックの一宗派に過ぎず、また麻薬業者の黒魔術信仰とも言われていたが、300年前の生命戦争を境に一変、死が常に人々の喉元にナイフを突き続ける状況となり、サンタ・ムエルテ信仰は世界的に流行した。そして今では世界4大宗教の一つである。
死は悪人にも聖人にも平等に訪れる。故に、死の聖母は悪人も聖人も等しく祝福する。何もかもが不平等な世界で、唯一サンタ・ムエルテだけが平等なのだ。
だが、彼が何かしらの特定の宗教を崇拝しているかもしれないというのは意外だ。まぁ、これも徒然に絵を描いてるうちに描こうかなと思った一枚なのかもしれないが。
彼がもし本当にサンタ・ムエルテを信仰しているのなら彼は死を経験した上で死を崇拝していることになる。彼は死後が平等な結末である事を信じているのではなく、理解しているのだ。
もし、これが真ならば現行のありと凡ゆる宗教と道徳を破壊することになるのではないか?だってそれは天国と地獄の非存在証明であるし、その結果天国に召される為に善き行いをだとかそういう文化は根底から否定される。
...だけどそれが正しいのかもしれない。だって死後がないのならこの世界を最上のものと捉えられる。忘却の無限よりも主体性のある70年の方が価値がある事を明白なのだから。しかしそれをするには人の心は脆すぎる。病み人に天国無し故この世は最上なりと言って、それがなんの救いになるというのだ?
そんな答えようのない事を考察しつつ、私の本能は餌を求めていた。
私は彼が用意してくれたであろうさっきの水を飲み干し、彼の部屋を出る。
「おはよう、フラン。」
彼はキッチンに立ち朝食を作っている。だが肝心の朝食、パンにバターを塗って焼いた物とお椀にコーンとバターを入れてそれを温めた物か。ほぼ油を食ってるようなものでは無いか。
「昨日の記憶無いんだけど、なんで私あなたの部屋で寝てたの?」
昨日、クライヤーとその弟妹と肉食べてそれから家に戻ってお酒を飲んで、それから記憶がない。変な事を言ったり、変な事をしてなかったかと問いたいところだが、それで幸運にも忘れてくれた酔いの奇行を思い出したら嫌だ。
「君が酔っ払って部屋を間違えたんだよ。だから昨日僕はソファで寝かせてもらった。ほら、布団代わりの衣服が散らかってるだろ?」
こんな寒い時期にソファで寝かせてしまったとは申し訳なく感じる。
「私の布団持ってくか、それこそ私の部屋で寝てくれてもよかったのに。」
「女性の部屋に無断で入るのは憚れるだろう。はい、コーヒー。」
机に置かれたコーヒーを飲む。私が選んだ銘柄なのだから美味しいのは当たり前だが、それはそれとして砂糖の量がいつもの2倍入れてある。
「別にいいよ、悪いのは勝手にあなたの部屋で寝た私だし。あと、ごめんね。酔うと酷くてさ、私。」
「あぁ、そりゃ。ははっ。」
わざとらしく笑う彼に対してこのコーヒーを投げてやりたくなった。
「本当に変な事してないよね?私。」
「ん、してないよ。」
「ほんと?」
「ほんとだよ。」
そんなオウムと会話するような無駄な時間を過ごし、私たちは椅子に着く。
「今日は再上映やるよ。」