始まりの日〔2〕
「──っ!」
彼の鋭い声を聞いたのと同時、璃玖は教室の全ての窓ガラスがドーム状に膨れ上がるのを見た。
壁に体を叩きつけられ意識を飛ばしかけた璃玖だったが、何とかつなぎ止めて薄く目を開いた。何やら白いベールのようなものが視界を覆っていて、それはまるで璃玖たちを守るかのように淡い光を放っていた。
「けほっ…痛、ぁ」
壁に強か背中を打ち付けたようで一瞬息詰まり、激しく咳き込んだ。
宙にむかって伸びていた少年の手のひらが、ゆっくりと下げられた。すると覆っていたベールが消え、ガラスの破片と思しきものが消えたベールに沿って滑るように床に降り積もった。
「……」
もしあの白い靄が璃玖を覆っていなかったら。考えるだけで背筋が凍りついてしまいそうだった。
「立てるか」
「何、今の…」
「説明してる暇はない、こいつの始末が先だ」
「こいつ、って」
「ポルターガイストという言葉、聞いたことがあるだろう」
ポルターガイスト現象は、手足のない物が勝手に浮遊したりする不可解な現象のことである。霊的な現象であると耳にしたことはあったが、実際に目の当たりにしたことはなかった。
「…厄介だな」
「え…?」
「これから良いと言うまで、絶対に動くなよ」
「何で、何するの…」
全て言い終えないうちに、璃玖の額に冷たいが指先が触れた。
「あ…っ」
あの時と、まったく同じ感覚。雨の降りしきるあの路地で、神崎先生にかけられた不可思議な術。
ただ一つあの時と違うのは、意識が保たれているということ。青白い光とともに現われた“何か”は、璃玖の瞳に鮮明に映っていた。
「…!」
狐だと、璃玖は思った。しかし本物の狐ではないことは一目瞭然だった。尻尾が三本も生えているし、胴体から後ろ足にかけては、まるで空気に混ざるようにして消え入っていた。
宙に浮きながら璃玖を見下ろす鋭い眼光は、間違いなく狐を思わせるものだった。
『ルヴィアン・セナって、お前のことだろ?…なるほどな、裏切り者ってのはそういうことか』
あざけるような笑みを浮かべる青い狐に、少年はわずかに眉をひそめた。
「遊魂が、何の用だ」
『頼まれたんだ。血を裏切ったお前を、襲えってさ』
「誰の差し金だ」
『知らないね。オレを呼び出したのが誰かなんて、興味もない』
「…大体の見当は付いているが」
浅くため息をつくと、瀬名は床に散乱したゴミの中から、空のペットボトルを拾い上げた。
「理由なんか、無に等しいだろうけどな」
瀬名の右手が素早く動いて、狐に向けられる。
『無駄な足掻き、オレはそう簡単にやられねえよ』
声と同時に、狐は激しい炎に包まれた。それは辺りに火の粉を撒き散らすようにしながら燃えさかり、立ちはだかる瀬名に襲いかかった。
「……っ」
危ないと叫んだつもりが声にはならず、かすれた息が喉を通っただけだった。 瀬名は態勢を崩したのか、床に手をついて攻撃をかわした。
『何だよ、吸血種族ってのはこんなもんか?』
嘲笑いながらの襲撃に、瀬名は同じように攻撃をかわすだけだった。
このままでは、ただ一方的にやられるだけになってしまう。璃玖にはただ不安だけがつのっていた。
「──召喚」
それはとても短く、場に似合わないくらい冷静な声だった。声と同時に、瀬名の指先が触れる床には複雑な模様が浮かび上がり、璃玖は息をのんだ。
模様の上には光とともに白い何かが現われて、鋭い両眼を狐に向けた。
『狼の召喚魔、か。やるなあ、あんたも』
「遊びは終わりだ」
白い狼は、ものすごいスピードで遊魂に向かって突進した。遊魂に正面からぶつかると思われた瞬間、狼の姿は消え入るように空中で霧散した。
『…ふん、逃げ出したか?』
空気が止まった。
「…ザコが」
『…うわっ…何すんだコノヤロッ…』
突然遊魂が、何かから逃れようとしているかのように藻掻きはじめた。何が起こったのかわからず、璃玖はその様子をただ茫然と眺めているしかなかった。
苦しみに表情を歪める遊魂の身体のまわりを、白い粒子が渦を巻いて漂いはじめた。それが一体何なのか、璃玖はわかったような気がした。
「うせろ、遊魂」
『く…そっ!』
狼にがんじがらめにされた遊魂は逃れるすべもなく、瀬名の片手にあるペットボトルにあっという間に吸い込まれてしまった。
ボトルのキャップをしめた瀬名の指先が、今度はパチンと音を鳴らした。それを合図に璃玖の金縛りがとけて、璃玖は異常に乱れた呼吸に咳き込んでしまった。
「怪我は」
「へい、き」
息絶え絶えの璃玖は、それだけ答えるのもやっとだった。
「教室、ぐちゃぐちゃ…」
窓ガラスは割れて床に破片が散乱し、机や椅子は吹き飛ばされたように壁ぎわへと押しやられていた。到底二人で片付け切れる状態ではなかった。
「うわー、大惨事だねコレは」
音もなく、いつのまにか現われた神崎先生が、気の抜けた声を上げて苦笑した。
「セナの結界のおかげで、被害は教室だけに止めたみたいだけど」
「神崎、先生…」
「大丈夫、何が起こったのかは大体把握してるよ。それで?やったの?」
「…仮詰めだ」
瀬名はペットボトルに収められた青い光を、先生の目線の高さまで持ち上げる。
「君が封印する?僕がやっておいてもいいけど」
「いや、いい。始末は自分でつける」
「…セナ」
静かな声で名を呼ばれて、歩きだしていた瀬名は足を止めた。
「その召喚魔は、主人の言い付けにしたがって動いただけだと思うけど?」
向けられていた背中が動いて、こちらに視線が向いた。
「……だからどうした?」
表情には、何の感情もなかった。悪寒が、全身をかけぬける。
体が動いてしまったのは、まったくの無意識だった。
「待って!」
震える足で、力をふりしぼって立ち上がった。嫌な予感がしていた。それだけは絶対に、ダメだと思った。
「殺したり、しないよね?」
彼の鋭い視線が、恐ろしくてたまらなかった。
けれどやはり、見え隠れするのは深い闇──深い悲しみ。
「ダメだよ…」
そんなに悲しい顔をしながら、何かを殺めるなんて。
瞬間、彼の瞳に怒りが燃えた。首を掴まれ壁に押しつけられて、頭を強く打った。
「お前に何がわかる?」
痛みと苦しみと、彼の悲しみが、同時にあふれて流れ込んでくる。
「セナ、手を放すんだ」
手の力が強まって、意識も朦朧としてくる。苦しい、そして悲しい。
「セナ!」
「闇を知らないお前に、何がわかる──…」
言葉の途中で、璃玖の意識は途絶えた。
死ぬのかもしれないと思った。彼にあんな顔をさせたまま、二度と会うことは無いのか、と。
それが何よりも、悲しくてしかたがなかった。
†
僕の主人。
それはとても大切な人で、たとえ自分の身を犠牲にしてでも、守ろうと決めた人。
──そう、何度でも。
(…璃玖?)
嫌な予感はしていた。あの日、あの出来事をこの目で見てしまったときから。
あれは、まるで呼ばれているような感覚だった。恐ろしいほどの負の気配、自分の力ではどうにもならないと、半ばわかっていたのかもしれない。
けれど、見過ごすわけには行かなかった。
大切な人にこれから降り掛かってくるであろう、たくさんの災難に、僕は気付いていたのだから。
(リク…っ!)
無我夢中で部屋を飛び出し、人目もはばからずにただ走った。不思議そうにこちらを見る人の姿もあったが、気にも止めなかった。
生け垣を飛び越えれば、目的とすべき場所はすぐにわかった。彼らとは別に、かすかだが何かの気配も感じた。
二階だったが階段は使わず、高さのある木にかけのぼって、くだけ散って枠だけになった窓から飛び込んだ。
「…ニャア」
璃玖は、無事だろうか。
始まりの日...END