再び、保健室へ
教室に入るなり、いつもとはちがうその雰囲気に璃玖は思わず足を止めた。
「なに?この騒ぎ」
水未も訝しげに顔をしかめ、教室内を眺める。
そんな二人に気付いたクラスメイトが、興奮気味に話しかけてきた。
「あっ、伊藤さんに東条さん。おはよう」
「おはよ…何の騒ぎ?これ」
「それがね、大変なの!噂なんだけど…」
彼女が話しはじめようとした、その時だった。
璃玖と水未の背後に荒い息をしながら生徒が駆け込んできて、教室内に向かって叫んだ。
「今っ、職員室に噂の男の子が…先生方が、新入生だっておっしゃっていたわ…!」
時が止まったように静まり返った教室は、彼女の荒い呼吸音だけが響いていた。
「どういうこと?聖霞学園に、男子生徒?」
「信じられない、この学園に野蛮な男が入学するだなんて!」
飛びかう声は様々だった。興味深そうに噂話をする生徒もあれば、不安そうに話しだす生徒、ショックに言葉をなくす生徒もいた。
「馬鹿馬鹿しい、世の中の半分は男だっての。んなことで騒ぐとか、くだらない。ねえ璃玖」
「………」
「璃玖?」
「…ごめん、ちょっと行ってくる」
「はぁ?…ちょっ、璃玖…璃玖ってば!」
水未の声を背中に受けながらも、璃玖は振り向かずに歩いた。しだいに歩調は早まり、やがては駆け足になっていく。
階段を一番下までかけ降りて、廊下をひたすらに走った。
つきあたりにあるドアを、ノックもしないまま勢いよく開け放った。
「はあ、はあ…」
肩で息をする璃玖を、紫色の髪をした保健医・神崎紫苑先生は不思議そうな目で見つめた。
「璃玖ちゃん?どうしたの、そんなに慌てて」
「あの人…」
「え?」
「若松瀬名って人、今どこに…」
あの不可思議でおぞましい出来事から一週間近くがたち、それ以来璃玖が少年に会うことはなかった。
全てが夢であったのかと思ってしまうほどに、かわらない日常を送っていた。かと言って、目の当たりにした様々な事実を受け入れていないわけではなく。
あの少年が聖霞学園の新入生だということや、璃玖のルームメイトであるということは、先生の悪戯な心から生まれた悪い冗談だとばかり思っていたのだ。
「セナを探して、ここへ来たの?」
驚いたように見開かれたままだった先生の目が、すっと細められる。
唇がゆっくりと弧を描き、先生の顔には穏やかな笑みが浮かんでいた。
「セナのことを気にかけでくれるなんて…君たちは良いルームメイトになれるよ」
「それ、冗談話じゃなかったの…?」
「冗談、って?本当だよ、セナは聖霞学園の新入生で、璃玖ちゃんのルームメイト」
明るい調子で話す先生に、璃玖は絶句した。
「セナの傷、僕の献身的な看病のおかげで、もう大分治ったしね。やっと普通の生活ができそうだよ」
先生はご機嫌な様子で、鼻歌まで歌いながらキッチンに立っていた。
手際よくお茶の準備をすすめる先生の後ろ姿を、璃玖は鋭い眼差しで見つめた。
「いい加減にしてください!」
あらん限りの力をこめて、璃玖は叫んだ。
「学校中の生徒達が噂して、混乱してるっていうのに…何の説明もないなんて、そんなのおかしいです」
「説明って言われてもねえ」
用意した三人分のお茶をテーブルまで運ぶと、先生はソファにゆったりと腰掛けた。
「生徒達に、何て言ったらいい?僕やセナは人間じゃなく吸血種族で、魔術が使える妖怪です…って、そう言えばみんなは納得するのかな?」
「それは…」
「そんなこと誰も信じないだろうし、言ったところで余計に騒ぎになるだけ、でしょ?」
先生の口調がどことなく威圧的に感じられ、璃玖は口をつぐむ。
「璃玖ちゃんだって、実際にあの出来事を自分の目で見ていなければ、僕らのことを信じてなんかくれなかったよね?」
「………」
「まあ、当然だと思うよ。実際に目で確かめもしないのに根も葉もない噂話を信じるなんて、それこそくだらないからね」
ため息混じりにそう言って、先生は読みかけだった本を手に取りそのまま読み始めた。
「噂っていうのは意図的に流すことは出来ても、消し去ることは不可能だからね。なるようになるよ、きっと」
彼の言論はもっともだった。全校にまで広まってしまった噂を璃玖一人の力でどうにかしようなどとは思わない。
そもそも話されていることが事実である以上、事が収まるのをただ黙って見ていることしか出来ないのだ。
「セナの反応だけが、少し心配だけどね」
ため息混じりに言う先生は、言葉とは裏腹にかすかに笑みを浮かべていて。
“違う”と、璃玖は悟った。
彼は心配してるとか、そういうわけではないのだ。
そう、彼はまるで──。
「楽しんでいるようにしか見えません」
半ば睨むようにして、璃玖は先生を見つめた。
「…あれー、わかる?実はすっごい楽しみなんだよね、今後の展開」
カップを片手に、本に向けていた目を璃玖へと移した。先生の表情はというと、これまでにないくらいの満面の笑み。
「…さて、二人目のお客さんだ」
そう言って先生が視線をドアへ移すと、ノックもなしに保健室のドアが開かれた。
「やあセナ。そろそろ来ると思ってたよ」
少年・若松瀬名はというと、先生のほうを見向きもせずに空いたベッドに腰かけた。
「どうだった?初めての登校は」
「人間だらけだった」
「あたりまえだよ、ここは人間の世界なんだから」
事情を知らない人間が聞いたならば、まず変な目で見られること間違いなしの会話。
璃玖は改めて、この二人が別種族の生き物であることを感じる。
「…疲れた」
「お茶は?セナの分もある」
「いや、いい」
少年は冷ややかな声色で受け答えをするだけで、先生と目を合わせることもしなかった。
「…猫の様子はどうだ」
やはり少年は、目も向けないままに問い掛けてきた。猫という単語から、それが璃玖に向けられた質問だということに気付く。
「……リオなら、大丈夫。もうだいぶ良くなってる」
怪我は、驚くほどの速さで治癒していった。後遺症なども残らなかったのは、まさに奇跡としか言いようが無かった。
ただ璃央はあの日以来、璃玖のそばから離れないようになった。
学校へ行くときも、あとを付いてこようとするのだ。そんな璃央をなだめるのに、最近璃玖は苦労していた。
「よっぽど怖い思いをしたのか、私のそばから離れようとしなくて」
璃央に対する愛しさがこみあげて、自然とこぼれる笑み。
「…あんたは、そんなふうに笑うのか」
「……?」
少年の口からこぼれた言葉に璃玖は首をかしげ、先生のほうに目を向ける。
「そっか、説明してなかったんだね」
璃玖の視線のわけに気付いた先生は小さく笑うと、胸に手を当てる仕草をした。
「僕たち吸血種族にはね、心がないと言われてるんだ」
「心がない…?」
「そう。つまり何も感じない。笑わないし、涙も流さない」
話をする先生は、いつも変わらない笑みを浮かべているのを、璃玖は知っていた。
──自然すぎて、逆に不自然。
璃玖が今まで心のどこかで感じていた違和感の正体が、はっきりと見えた気がした。
「でも…」
──そう、でも。
「先生に心が無いなんて、感じたこと…なかった」
いつも変わらない笑みとはつまり、それ自体は偽りの表情なのかもしれない。
けれど、たまに見せる“本当”の表情も、璃玖は知っている。
「…僕、思うんだ」
組まれた手のひらに視線を落としている先生の横顔は、ほんの少しだけ戸惑っているようにも見えた。
「僕らは、心が無いんじゃない。心を知らないだけだ、って。泣き方を知らない、笑い方も知らない。僕らの心は、時を止めてしまった」
「笑わないんじゃなくて、笑い方を知らない……?」
「そう、その通り」
笑いたいのに、笑えない。
泣きたいのに、泣けない。
溢れだしそうな感情は行き場を失い、自分自身の内に閉じ込められてしまう。
「僕らの仲間のほとんどが冷徹で残酷なのは、そのせいなんだよね…きっと」
秘められた感情は内で爆発し、それは自分自身を傷つける凶器にしかならない。
心は歪み、人格を崩壊させていく。
彼らの中に、愛は存在するのだろうか。
「璃玖ちゃん?」
「……」
「大丈夫…?」
静かな保健室に、嗚咽の音がやけに大きく響いた。
「意味、分かんない…止まんない…」
人前で、しかも天敵である男の前で涙を流すなんて、無防備にもほどがありすぎる。耐えがたい屈辱とさえ思えた。
それでも璃玖は、溢れてくる涙を止めることが出来なかった。
「人間の涙、か」
気付けばすぐ近くに少年がいて、感情の無い瞳でただ璃玖を見つめていた。
少年の瞳はやはり深い色をしていて、見つめていると、吸い込まれてしまいそうな錯覚まで感じるほど。
「純粋だとか無垢だとか、シオンは言っていたが」
少年の指先が、璃玖の頬に触れる。
機械的で無感情な言葉とは裏腹に、壊れ物に触れるかのような動作だった。
「そんなことは、わからない……けど」
撫でるようにやさしく触れて、璃玖の涙を拭った。
「……綺麗だ」
指先に伝った涙の雫を見つめる少年の表情は、どこか哀しげで。
今にも消え入りそうなくらいに儚い存在のようにも思えた。
しばらくの間、璃玖は少年から目を離すことができなかった。
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