闇の住人〔2〕
吸血種族。
はるか昔から、人間の世界からは見えない闇の世界において栄えてきた、もう一つの文明社会。
そして、人間の世界とは対になる存在。
「僕たち吸血種族はその名のとおり、人間の生き血を糧にして生きているんだ。人間と同じように食事を摂ったりもするけれど、吸血種族の力の源は、人間の血に他ならないんだ」
見た目は人間と何ら違いはない。
だからこそ神崎先生のように、いとも簡単に人間の世界へと馴染むことができるのだ。
「人間には人間の世界があるように、吸血種族には吸血種族の世界がある。けれど、僕らみたいな例外もいる」
能あるタカは爪を隠す。彼らは人間より優れた様々な能力を隠して、人間のようにふるまって生きているのだ。
「先生も…血を飲むんですか?」
普通の人間だと信じて疑わなかった。疑いようもなかったのだから。
自分と同じような姿形をした彼らが、同じような姿形の人間の血をを食料として食らっている姿を思い浮べ、璃玖は吐き気を覚えた。
「それは、ね。僕自身も、生きるために人間の血は不可欠だから」
神崎先生によって語られた、非現実的すぎる事実に、璃玖は気が滅入ってしまいそうだった。
「…先生にとって私たちは、ただの食料でしかなかったってこと、ですよね」
目の前のテーブルに置かれた紅茶は、すでに冷めきって湯気もたてない。これを飲むのと同じように、彼らは人間の血を飲むのだろう。
「まあ、否定はしないかな。生きるためとはいえ、生徒達の血を飲んでいたことは事実だから」
不意に、水未の顔が頭に浮かんだ。
普段先生に対してひどいことを言ってはいても、水未は先生のことを慕っていた。
「何なの…信じらんない…!」
水未の気持ちを踏みにじるような言葉に、璃玖は怒りに震える手を握りこんだ。
無意識のうちに、璃玖は先生に向かって腕を振り上げていた。
「……!っと」
振り上げた手のひらは神崎先生に当たることなく、手首を掴まれ動きを封じられる。
掴まれた手首から這い上がってくる悪寒に、璃玖は彼の手をを全力でふり払った。
「僕を殴ったって、何の解決にもならないよ?璃玖ちゃん」
彼が璃玖の心理を見抜いていることに間違いはない。
ことごとく人を馬鹿にするような態度に、璃玖は悔しくて下唇を噛みしめた。
悔しい。
──悔しい、悔しかった。
「放して…!」
「少し落ちつこう、璃玖ちゃん」
再び手首をつかまれた次の瞬間、視界が揺らいだ。
「…あ…っ!」
意志とは裏腹に傾いてゆく身体。来るであろう衝撃に、璃玖はきつく目を閉じた。
しかし璃玖が感じたのは痛みなどではなく、何か温かいものに包まれるような感覚。
ゆっくりと目を開くと、すぐ近くに神崎先生の顔があった。
「ちょっと手荒だったかな?」
そう言いながら先生は璃玖の身体を、再びソファへと座らせた。
「今のも、術…?」
「そ。まだ話は終わってないからね」
思考回路はまるで、霧がかかったようにぼんやりとしていた。
しかし不思議なことに、先生の声だけは、はっきりと耳に届いていた。
「水未ちゃんの血を飲む気はないよ」
「…え?」
「水未ちゃんは、僕に好意を持ってるから」
さも当たり前のようにサラリと言ってのけた先生に、璃玖は瞬きも忘れて彼を見つめた。
「僕が血を飲むのは、保健室を訪れる不特定多数の生徒。気付かれないように少量しか飲まないし、記憶も消すよ」
「水未の気持ちを利用するようなことはしない、ってこと?」
「…綺麗事に聞こえる?」
先生の笑顔にはどこか、影があるようにも見えた。璃玖にはその理由など知るよしもなく、ただ黙っていることしかできなかった。
「さて、あとは何を話せば良いかな。何か聞きたいこととか、ある?」
先ほどの雰囲気から一転、あまりにも軽い口調で尋ねられると、逆に萎縮してしまう。
疑問に思うことは多すぎるくらいにあったけれど、順序立てて問う余裕もなかった。
「先生は……あなたたちは、なぜ“人間の世界”に来たの?血が欲しいから?」
尋ねてから、馬鹿げた質問だと璃玖自身思ってしまう。
人間とは相容れない存在であるはずの彼らが、人間の世界へとおもむく理由。それはただ一つ、生きるための糧を求めてのことだろう。
「この世界に来た理由、ねえ。覚えてないかな、だいぶ昔のことだから」
「そんなふうに言って、はぐらかすつもりですか」
「あはは、意外。璃玖ちゃんって案外気の強い子だったんだ」
「ごまかさないでください」
「んー、嘘はついてないんだけどな。小さい頃から僕はこっちの世界で育ったんだ。長い間、ずっとね。馴れ親しんだ世界に居たいと思うのは、何も変なことじゃないでしょ?」
「そうです、けど…」
「僕の話はよしとして。君のルームメイト…つまりセナくんの事情は、ちょっぴり複雑なんだよね。聞きたい?」
言い終わるが早いか、先生の頬を何かがかすった。背後にある薬品棚のガラス扉が、音を立てて割れる。
「…余計なことを喋るな」
「ホント、口より手が先に出るんだから」
頬にできた赤い傷から、ワインレッドの液体が流れて頬を伝う。
「はー、仕方ない。この話はまた、セナの居ないときにしよっか。どっちにしろ、セナはこんな大怪我じゃ学校へもいけないし、絶対安静だしね。今夜はもう遅いから送るよ、璃玖ちゃん」
先生の言葉に時計を確認すると、時間も忘れて話していたことに気付く。
明日から学校も始まるというのに、何の支度もできていなかった。
「大丈夫です、帰れますから」
「…そっか、わかった」
璃玖は、となりで眠っていた璃央の身体をそっと抱き上げる。
「そうそう、リオくん…だったかな?傷はそこまでひどくはなかったみたい。しばらく安静にさせておけば、回復するよ」
「……ありがとうございました。璃央を、助けてくれて」
「どういたしまして。また、明日ね」
璃玖は先生にむかって小さく頭を下げ、保健室を後にしたのだった。
†
少女が去った保健室は、静けさに包まれていた。
「……わざわざ嘘をつく必要があったのか」
ベッドに横たわったまま、少年が言った。
「何のこと?」
「術を使っただろう、あの猫に」
「ごまかせないねー、セナの目は」
「アイツの力は、俺が一番知ってる」
「はは、そうだね」
皮肉を言った彼に軽く笑い声をあげて、握りこんでいた手のひらを開いた。
「…一度死んだよ、リオ君」
「だろうな」
「あの子の力ってホント、計り知れない…容赦って言葉を知らないらしいから。セナもそう思うでしょ?」
猫の姿の彼──リオは、一度その“魂”を身体という器からはじき出されていた。
魂と身体の分離、つまり、一瞬にして対象物を死へと追いやる恐ろしい術だった。
手のひらは赤黒くただれ、ワインレッドの吸血種族特有の血がにじんでいた。
「他人の術を解くのに、こんな痛手を負うとは思わなかったよ。王族直結の血って怖いね、やっぱり」
「…何故助けた」
「んー、気分?恩義をかければ、璃玖ちゃんも僕になついてくれるかなって」
あながち冗談でもない言葉をこぼせば、彼は訝しむように目を細めて小さくため息をついた。
「……寝る」
「おやすみ」
何秒もたたないうちに聞こえはじめた浅い寝息に、紫苑は遮光カーテンをゆっくりと閉めたのだった。
闇の住人...END.