黒い猫を追いかけて
すっかり落ち込んでしまった璃玖を気遣ってか、水未は部屋の前まで付き添ってくれた。
たまに見せる水未の優しさが、璃玖は大好きだった。口に出しては言わないけれど。
「じゃーね、おやすみ。ルームメイトのこと、あんま気にしすぎないように。どーせあの変態のハッタリなんだから」
「…ん、ありがとう」
「あと、もうひとつ。重要な話なんだけどさ」
水未が用心深く、あたりの様子をうかがった。
人の姿がないことを確認して、水未は声のトーンを落として話しはじめる。
「リオのこと。バレないようにね」
「そっか、うっかり隠すの忘れるとこだった」
璃央。璃玖がこっそり飼っている雄猫で、その秘密を知っているのは水未と、そして校医の神崎先生だけ。
「新しく来る子が猫嫌いだったら、マズイからね。相手の様子がわかるまでは、口が裂けても言ったりしないこと」
「うん」
また明日、と手をふってドアを閉める。用心のため鍵をかけた。
「リオー、ただいま」
部屋に入ってまず探すのは、愛猫の姿だ。
そしてその姿は、すぐに見つかる。
「ニャー」
手を伸ばして抱き上げれば、嬉しそうに擦り寄ってくる──はずだった。
「ニャア、ニャー」
「…!ちょっと璃央、静かに…」
いつもは大人しいのに、様子がおかしかった。
ひどい興奮状態にあるようで、璃玖の手から逃れるように暴れた。
「璃央てば、騒いだらバレちゃ………痛っ!」
鋭い爪が、璃玖の皮膚を引き裂いた。浅い傷ではあったが、赤い血がにじみヒリヒリと痛んだ。
璃央は玄関のドアの前に立ち、じっと璃玖を見つめていた。
「どうしたの、璃央…」
ドアの前から離れようとしない。
璃央の緋色の瞳は、有無を言わせないような力を宿していた。
「……」
いつもならば決して外に出したりはしないけれど、いつもとちがう璃央の様子に璃玖はすっかり怯えてしまっていた。
おそるおそる近づき鍵をあけ、ドアを開いた。
それからの出来事は一瞬だった。わずかに開いたドアの隙間から、璃央は勢い良く飛び出していった。
璃玖は、その小さな後ろ姿を追って、ただひたすらに走った。
「……リオ!…待ってってば、リオ!」
呼び掛けても、璃央は走るのをやめない。
黒いその姿は闇に溶け、何度も見失いそうになるのを璃玖は必死に追い掛けた。
「…はっ…はあ…リオ…?」
角をまがったと思えば、璃央の姿は見えなくなっていた。
「…うそ、やっ…璃央!」
見失ってしまった。焦りと悲しみに、璃玖は頭が真っ白になってしまった。
あたりは闇。璃央を追って入り込んだそこは狭い路地で、街頭もない。
「どうしよう…」
途方にくれ、璃玖は足を止めた。
璃央の姿を完全に見失った今、璃玖に為す術はなかった。
──ポツン
ポツ、ポツ
ザァァ―――…
「あ…」
前触れなく降りだした雨は、容赦なく璃玖の体を濡らした。
傘もなければ、雨をしのげる場所もない。
「──ギャァァ!」
奇妙な鳴き声が聞こえた次の瞬間、黒い何かが路地の向こうを横切った。
衝撃音とともに、雨が降り出して間もない乾いた地面からは、白い粉塵が舞った。
「…けほっ…何…?」
横切った“何か”が突っ込んでいった場所へと、璃玖は恐る恐る近づいていく。
瓦礫に埋もれるようにして、その“何か”はあった。
「…璃央?」
黒い猫だった。
それは璃玖のよく見慣れた姿で、横たわっていた。
「うそ…嘘うそ、嫌っ…璃央!璃央っ!」
璃央の体をおおっている瓦礫をひたすらにかき分けて、璃央の体をそっと抱き上げた。
目を閉じたまま、動かない。
「……っ!」
いったい誰がこんなに酷いことをしたのか。
信じられなかった。信じたくなかった。
「何でよ、璃央…」
璃玖は、璃央が飛ばされてきたその方向に目を向けた。
許せないと思った。
一人っ子だった璃玖は、小さい頃からずっと璃央と一緒だった。兄弟同然に暮らしてきたのだ。
「…誰?誰が璃央をこんな目に合わせたの…っ!」
視線の先に、何か動くものを見たような気がした。
璃玖は璃央を抱いたまま立ち上がると、路地の内部に向かってゆっくりと進んだ。
頬を伝うものが涙なのか、雨の雫なのか、璃玖にはわからなかった。
「…璃央を傷つけたのは、キミ…?」
目の前に広がる惨劇を、璃玖はどこか夢見心地で眺めていた。
否、果たしてこれが現実であって良いものなのか。
足元に広がる血の池。雨に打たれて、それは次第に璃玖の靴をも濡らした。
横たわる、真っ赤な少年。その華奢な背中を、長く太い剣によって貫かれていた。
そして、闇に紛れてしまいそうな漆黒の片翼。
「…天使……?」
受け入れがたい出来事が、璃玖の脳内に真実として流れ込んでいく。
腕に抱いた璃央を、璃玖はすがるように一層強く抱き締めた。
「…ぷっ…あはは!」
この惨状に不釣り合いな軽い声が、璃玖の耳に届いた。
「黒い羽根の“天使”か。なかなかユニークだね、璃玖ちゃん」
ドクンドクンと不規則に波打つ心臓は、璃玖への危険信号を表していた。
この場所にいるということは、間違いなく、目の前に広がる惨劇に関わりのある人間。
しかもその声は紛れもなく、璃玖の聞き慣れた声だった。
「こんばんは、璃玖ちゃん。元気?」
どうして。
そう問い掛けたかったはずなのに、璃玖の喉からは掠れた息の音がもれただけだった。
恐ろしいくらいに、いつもの笑みを崩さずに立っていたのは──神崎先生、その人だった。
「元気なワケないか、こんな状況を目の前にしてるんだもんね…あーあ、こんなになっちゃって」
少年の背を貫いていた剣に、先生は手を添えた。
一瞬剣の柄を握りしめたかと思うと、次の瞬間には、剣は空中で霧散して見えなくなった。
「さて、と。どうしよっかな」
そう一人ごちて、先生は璃玖に目を止めた。
「見ちゃったんだもんね、璃玖ちゃん。残念だけど」
先生の指先が額に触れると、全身は石のように動かなくなる。
声も出ない、悲鳴も出せない。
支えを失った璃央の体は、璃玖の手から滑り落ちて地面に転がった。
「…っ…!」
「手荒なことはしたくなかったんだけど」
何もできないその状況下において、涙だけが璃玖の感情に従い流れ落ちていった。
「ごめんね、璃玖ちゃん」
暗くなる視界の端に見た神崎先生は、やはり、いつもの笑顔だった。
黒い猫を追いかけて...END